連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・前 池永 陽 You Ikenaga

 たっぷり十分以上、米子の背中を両手でさすってから、
「米子さん、すんだよ――だけどよ、何で十分間なんだ。そんなこと、いったい誰から聞いたんだ」
 最後の仕上げに、背中を軽くぽんぽんと叩いて訊いてみた。米子は「よっこらしょ」といって立ちあがり、皺(しわ)だらけの顔を麟太郎のほうに向けて、
「テレビだよ」
 にまっと笑って診察室のドアに向かって歩き出し、背中ごしに「ありがとよ」と礼をいった。
「八重さん、テレビがそんなことをやってたのかい」
 傍(かたわ)らに立っている看護師の八重に訊いた。
「どうもそうらしいですよ。あいにく私は観てなかったんですけど、周りの噂では何でも『幸福の癒しホルモン』とかいうタイトルでやってたと聞いてます。けっこう真面目な番組だったようですよ」
「幸福の癒しホルモンなあ。まあ、それには違いねえけど――そうか、それで急に手当ての注文が増えたのか」
 独り言のようにいう麟太郎に、
「多分、この傾向はしばらく続くと思いますので、大先生、覚悟されてないと」
 八重は口元を綻(ほころ)ばせながらいう。
「覚悟ったって、米子さんのような元気な人には俺の手当てなんぞは、まったく必要ないんだがな。むろん、必要な患者には今まで通り、積極的にやるつもりだがよ」
「必要ないなんていったら、それこそ収拾がつかなくなりますよ。何といっても、やってほしいと注文をつけてくるのは、中年以上の口の達者なオバサンばかりでしょうから。ですから、ブームが去るまでここはしばらく我慢をして……」
 当然という顔つきで八重はいう。
「ブームが去るまでなあ……」
 呆れた顔つきでいう麟太郎に、
「それにしても。随分昔から大先生は、あの手当て療法をやってらっしゃいますけど、お若いうちにその効果を確信して治療に取り入れられたとは、さすがに大先生、先見の明がおありになったんですね」
 感心したように八重はいった。
「先見の明なんてねえよ。俺はただ、昔から行われてることだから、やらねえよりやったほうがいいかと思ってよ。特に効果を期待してたわけじゃねえよ。それに、一種のカッコつけにもなるしな。それから――」
 ちょっと言葉を切ってから、
「若い女性の体にも遠慮なしに、さわることができるからよ」
 えらく真面目な表情を麟太郎は顔に浮べた。
「また、心にもないことを――いずれにしても」
 八重がはっきりした口調でいって姿勢を正した。
「立派だと私は思います」
 最敬礼した。



 2        10 次へ
 
〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number
第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)