連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・前 池永 陽 You Ikenaga

「おいおい、八重さん」
 麟太郎は照れた表情を浮べ、
「この話はもういいから、次の患者を入れてくれよ」
 顔をくしゃりと崩していった。
 次もオバサン連中かと身構えていたら、意外にも診察室に入ってきたのは、まだ若い男性だった。
「何だ、風鈴屋の高史君じゃねえか。どっか調子が悪いのか」
 麟太郎の前に鯱張(しゃちほこば)って立っているのは、町内の江戸風鈴の工房で働いている職人で、名前は田村高史。年は二十六で、青森の高校を卒業してから上京し、ずっと風鈴づくりの修業をしている若者だった。
「とにかく、座れ」
 診察用の椅子にまず座らせ、
「どうした。親方にぶん殴られて痣(あざ)でもつくったか」
 と優しく訊いてみるが高史はよほど緊張しているのか体を硬く縮ませている。
 この若者、風鈴づくりの腕はいいのだが、人見知りが激しいというか気が小さいというか、とにかく、人とまともに話をするのが大の苦手で、これには心底困っていると高史の親方で麟太郎の喧嘩友達でもある徳三からよく聞かされていた。
「で、いったい、お前さんはどこが悪くてここにきたんだい」
 麟太郎は再び症状を訊くが高史はうつむいたままで何も答えない。
「おいおい、俺がいくら名医でも何かいってくれねえと病名の見当もつかねえじゃねえか。ウンとかスンとかよ」
 いいながら麟太郎は、こうなってくると悪いのは下半身のほう。それしかないと結論づける。
「医者には守秘義務というのがあってよ。ここでお前さんが口にしたことは金輪際、外にはもれないことになっている。そういうわけだから、どんなことでも安心して話すといいよ。俺の推測ではアソコの病気ということになるが。男ならよくあることだから、恥ずかしがらずによ」
 嚙(か)んで含めるようにいうと、
「そんなんじゃないです」
 すぐに否定の言葉が返ってきた。
「アソコの病気じゃねえってことになると、いったい」
 麟太郎が困惑の表情を顔一杯に浮べると、
「すみません、好きな女の子ができました」
 蚊の鳴くような声で高史はいった。
「はん……」
 一瞬何をいわれたのかわからなかった。
 そのあと、理解はできたが、何のために高史がここを訪れてきたのかわからなくなった。が、とにかく必要があって高史はここにきたのだ。それだけは理解しようと、麟太郎は自分にいい聞かせた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)