連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・前 池永 陽 You Ikenaga

「そうか、好きな女ができたのか。しかし、それは男としてごく自然なことで、ことさら騒ぎ立てるような――」
 という麟太郎の言葉を遮るように、
「心も体も辛(つら)いんです」
 高史が泣き出しそうな声を出した。
 ようやく納得がいったような気がした。
 しかし、麟太郎の専門は外科である。
 が、町医者をやっている以上、ありとあらゆる患者がくるのも確かだ。内科も泌尿器科も皮膚科も、時には婦人科の患者も押しよせてくるが、これは町医者の宿命のようなものでどうにもならない。
「そうか。高史君は女性に恋をして、その結果、心も体もずたずたになったというわけか。つまり、その女性に振られた――そういうことなんだな」
 できる限り優しい口調で麟太郎がいうと、
「違います」
 という言葉が即座に返ってきた。
「違うといっても……お前さん」
 何が何だかわからなくなってきた。
「まだ振られてはいません。というより、僕はその人と話をしたこともありませんし、まして告白なんてことは、そんなことは恥ずかしくってできるはずがありません」
 高史は相手の女性と喋ったこともなければ、告白したこともないといった。ということは……。
「その人のことを考えるだけで、心が痛くなるというか体が軋(きし)んでくるというか。とにかく辛くて辛くて」
 唇を嚙みしめて両肩をすとんと落した。
 いたのだ、まだ。こういう男が。この男女関係がオープンすぎるほどに開けた、平成の時代に。そう考えてみて、いくら時代が変っても人間の本質が変るはずもなく、数は少なくなってもこの手の男がなくなるはずもないと納得した。そして、妙に嬉しい気持に襲われた。
「それは高史君。恋患(わずら)いというやつで、神代(かみよ)の昔からある立派な病気だよ。なあに、心配はないさ。病であれば、それに対する薬というものが必ずある。だから俺に詳しく話してみねえか」
 子供を諭すような口調で麟太郎はいって、高史の肩をなでるように叩いた。

「また、親父のいつものお節介ですか」
 食卓の前に座っている潤一がいった。
 ここのところ、潤一は週に一度は必ずここに顔を見せている。いつも愛想のいい表情を顔一杯に浮べて。
「お節介じゃねえよ。医者として困っている人間を見たら放ってはおけねえだろうが」
 医者には守秘義務があると高史にはいったが潤一は医者であり、台所で何やら怪しげな夕食をつくっている麻世もいずれは看護師になる身と麟太郎は勝手に決めている。だから、その点は高史も許してくれるだろうとこれも勝手に決めつけていた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)