連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・前 池永 陽 You Ikenaga

「それで、その恋患いに効く薬というのはあったんですか」
 冗談っぽく訊く潤一に、
「あったさ」
 幾分得意げに麟太郎は答える。
「あったんですか!」
 驚きの声を潤一があげた。
「というよりな、最初から高史君にはその目論見があって俺んところにきたんだ――例の幸せの手当てだよ。どこかでその噂を聞いたんだろうな。近頃はテレビでも似たような療法を取りあげたということで、いろんな噂が町内を飛びかっていただろうからな」
「その噂を聞いて高史君は……」
「そうさ。聞くところによれば、俺の手当てを受ければ心の痛みも体の痛みもなくなるということだったので、意を決してここにきたってな」
 麟太郎は小さく一人でうなずく。
「なるほど。それで、その幸せの手当てをやった結果、どうなったんです」
 心持ち潤一は体を乗り出してきた。
「治った――」
 ぴしゃりと麟太郎はいった。
「治ったんですか。それは凄い臨床例ですね。恋患いが手当てというか、オキシトシンで治ったというのは」
 感嘆の声を潤一はあげる。
「背中、肩、腕、脇腹と一時間近くかかったことは確かだが、高史君は憑物(つきもの)が落ちたように元気になったな。もっとも――」
 じろりと潤一を見て、
「おそらく数日で元に戻るだろうな。残念なことだけどよ」
 大きな吐息をもらした。
「ということはつまり、病の根元を断たなければ完治はしない。そういうことですか。ですから得意のお節介を」
 最後の言葉は含み声だ。
「そういうことだ。恋愛を成就させるか、それとも荒療治ではあるが失恋させるか。道はこの二つに一つだな」
「荒療治で完治しますか」
 心配そうな口振りで潤一はいった。
「憑物は落ちて体の痛みは治まるはずだが、心の痛みを取り除くには時間がかかるだろうな。だが、やらねえとな。あんな腑抜けのままでは、つくる風鈴だって決していい音は出ねえだろうからよ」
 そんな話をしているところへ、麻世がお茶を運んできた。
「すぐに料理、できるから」
 テーブルの上に湯飲み茶わんを三つ並べる。
「麻世、お前も今の話を聞いてただろうが、この話、どう思う」
 機嫌よく麟太郎はいう。



    5     10 次へ
 
〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number
第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)