連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・前 池永 陽 You Ikenaga

「焼そばだよ。正式にいうとカレー焼そば。北の地方で名物にしている所があるって聞いたから、作ってみようと思って。何たって焼そばにカレー粉を混ぜるだけだから、失敗のしようがないし。見た目は悪いけど、味のほうはかなりの物だと思うよ」
 ちょっと得意そうにいって麻世は薄い胸を張るが、確かに見た目は悪かった。
 一言でいえばグチャグチャという感じで、焼いたはずの麺がひと塊になってくっつきあっている。ただ、香りはいい。カレーとウスターソースが混じった独特の香りが鼻をくすぐってくる。グチャグチャの麺の上にのっているのは紅生姜だ。
「見場は悪いけど、いい匂いですよ。うまそうですよ」
 こういって潤一がまず箸を取る。
 つられて麟太郎も箸に手を伸ばす。
 二人同時に麺をすくって口に入れる。
 麻世が真剣な表情で二人を見ている。
 麟太郎と潤一が麺をごくりと飲みこむ。だが、二人とも無言で何もいわない。互いに顔を見合っている。
「これは――」
 潤一が上ずった声を出した。
「けっこうな珍味だと思う。かなり癖はあるけど、僕の主観でいえば、うまい。この一言につきる」
「そうだな、珍味には違いないな。この上にのった紅生姜が、いい味を出してるよな。珍味だよな」
 麟太郎の本音だった。麺を口のなかに入れたとたん、舌にべったりと絡みついて味もへったくれもなくなった。紅生姜の辛みで何とか喉の奥に誘導はできたものの、とてもうまいとは。
 二人の言葉を聞いて麻世が無言で台所に向かった。自分のカレー焼そばを持ってきてテーブルの上にどんと置いた。
 たっぷりと箸ですくって食べ始めた。喉の奥に飲みこむまで少し時間がかかった。顔のほうは無表情だ。
「世界中には――」
 ふいにこんな言葉を麻世は出した。
「餓えてる人が沢山いる」
 それだけいって黙々と箸を使い出した。
 麟太郎と潤一も麻世に倣(なら)って黙々と箸を使い、黙々と口を動かす。静かな食事が終ったのは十五分後だった。
 テーブルの上のものが綺麗になくなり、三人は無言でお茶をすする。
「さてっ」
 麟太郎はちらっと麻世を見てから、
「久しぶりに田園にでも行ってみるか。お前はどうする。こないんだろうな」
 妙な誘い方を潤一にする。



      7   10 次へ
 
〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number
第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)