連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・前 池永 陽 You Ikenaga

「あっ、僕はすぐに病院のほうに戻ります。ちょっと抜けてくるといって出てきてるから、長居は……」
 本当に残念そうな口調でいう。どうやら麻世と二人だけでいたかった素振りだ。
「久しぶりって、一昨日も行ってるけど」
 麟太郎に向かっていう麻世に、
「おっ、そうだったかな。年を取ると、そのへんの記憶のほうが曖昧になってよ。いや、年は取りたくねえもんだ」
 首の後ろを叩きながら、麟太郎はテーブルの前から立ちあがる。
「それじゃあ、僕も」
 といって潤一も立ちあがり、ふと思いついたように、
「麻世ちゃんは男のような性格だっていってたけど、僕が男と女は違うってことをはっきり見せてあげようか」
 妙なことをいい出した。
「腕相撲してみないか。これでも僕は学生時代はテニス部に入っていて、腕力にはけっこう自信があるんだ。なあ、親父」
 すがるような目で麟太郎を見た。
「おう、そうだ、そうだ。お前はけっこう力持ちだった。それは認める」
 こうでもいわなければしようがない。潤一が学生時代にテニス部に入っていたのは事実で、腕力もかなりあることは確かだった。だが、この場合の潤一の目論見はただ単に麻世の手を握りたいということと、自分の力の誇示。そうとしか考えられなかった。しかし、麻世は普通の女の子ではない……。
「おじさん、私と腕相撲がしたいっていうの。ふうん」
 鼻で笑った。
 何を勘違いしたのか、潤一の両耳が赤くなるのがわかった。
「いいよ、やろうか」
 機嫌のいい声で麻世は答えた。
 この手の誘いには、すぐに乗ってくるのだ、麻世という娘は。そのあたりが腕力には自信満々の男そのものなのだが、むろん潤一にはそんなことはわからない。まだ、麻世のことを気は強いが単なる普通のヤンキーだと思っている。
「よし、やろう」
 潤一が喜色満面で叫んだ。
 右の袖を肘の上までまくりあげるが、麻世には何の動きもない。普段のままで突っ立っている。
「よし、勝負だ、麻世ちゃん。三番勝負にしよう。本当の男の力っていうやつを見せてやるから」
 どうやら潤一はなるべく長い時間、麻世の手を握っていたいようだ。
 二人はテーブルの上で手を握り合った。
「へえっ、麻世ちゃんって女の子の割りには手が大きいんだね。背のほうも、けっこうあって、スタイルもいいけど」
 余裕綽々(しゃくしゃく)で、潤一はまだ軽口を叩いている。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)