連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・前 池永 陽 You Ikenaga

「私はいつでもいいよ、おじさん」
 普段の声で麻世はいう。
「それなら、一、二の三だ」
 潤一の腕に力が入った。
 一気に麻世の腕をテーブルに押しつけようとするが……動かない。潤一の顔に動揺が走る。こんなはずでは、相手は元ヤンキーといっても普通の女の子だ。そんな思いが砕けちった瞬間だったが。
「うおーっ」
 と潤一が吼(ほ)えた。
 渾身の力を右腕にこめた。
 が、麻世の腕はびくともしない。
「いくよ」
 麻世が何でもないことのようにいった。
 右腕に力が入った。
 潤一の右手は簡単にテーブルの上に押しつけられた。驚愕の表情が潤一の顔に浮んだ。目が虚ろだった。
「こんなはずが……多分、何かの間違いだから、もう一回。三番勝負という約束だったはずだし」
 こんなことをいって、右肘を再びテーブルの上に乗せた。
 勝負は呆気なかった。同じ結果が二回目も三回目も続いた。
 無謀な戦いは終った。
 潤一は相当落ちこんでいる様子だった。
「帰るよ」
 一言だけいって部屋を出ていった。
 しばらくこいつは、この家に顔を見せないだろうと思ったが仕方がない。
 麻世と潤一では腹の括(くく)り方が違うのだ。麻世は命を張って武術を習得し、体を張って修羅場をくぐり抜けてきたのだ。お坊ちゃま育ちの潤一にはいい薬になるかもしれないと麟太郎は思った。それにしても麻世の力の入れ方は……。
「悪いことしたかな。おじさん、相当へこんでいるようだったけど」
 心配そうな口振りで麻世がいった。
「仕方がねえさ。力の差なんだから、どうしようもねえ。あいつの修行不足だ」
 首を振りながら麟太郎はいう。
「そうだよね。男と男の勝負だから、妥協は許されないもんね」
 男と男と麻世はいった。麻世の心のなかはまだ、男なのだ。何とかこれを打破して麻世を普通の女の子に戻す……麟太郎はそう考えるが、まだまだ時間はかかりそうだ。
「じいさんも、やってみるか」
 面白そうに麻世はいうが、しばらく何のことかわからなかった。ようやく腕相撲のことだと気がついた。
「俺はいいよ。さっきもいったように、もう年だからよ」
 こんな言葉が口から出た。
 本音をいえば怖かった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)