連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・前 池永 陽 You Ikenaga

 柔道で鍛えた自分の引手の威力は凄まじいはずだったが、それでも万が一ということはある。それほど麻世の力の入れ方は凄かった。自分の力のすべてを、腕の一点に集中させる術を心得ているとしか考えられなかった。武術とスポーツの差だった。
「それより、麻世。明日の土曜日、お前は何か予定でもあるのか」
 麟太郎は話題を変えた。
「私はいつでも暇だよ。予定なんか何もないよ」
 怪訝な表情で麻世は答えた。
「じゃあ、俺につきあってくれねえか。高史君のいった、惚れた女を偵察してこようかと思ってな」
「私はいいよ。確か相手の女の人は花やしきの裏の喫茶店でウェイトレスをやっているとかいってたよね」
「できれば高史君も一緒にな。相手の女性を見なければ、このあと、どう動いたらいいのかわからねえからな」
 小さくうなずいて麟太郎はいう。
「いよいよ、じいさんのお節介の始まりだね。高史君と、その女の人。何とかうまくいくといいね」
 ふわっと麻世は笑った。
 少しは素直になったような、普通の女の子の笑いに見えた。

(つづく)



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)