連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・後 池永 陽 You Ikenaga

 十五分後、麟太郎たちは『花やしき』裏の『ボン』という看板のあがった喫茶店の前にいた。
「入るぞ、高史君」
 気合を入れるように麟太郎はいい、扉を押して三人は奥の席に座った。すぐに若いウェイトレスが水の入ったコップとオシボリを持ってやってくる。丸顔のぽちゃっとしたかんじの娘だった。三人ともアイスコーヒーを頼んだ。
「あの子か。高史君のマドンナは」
 嬉しそうな声で麟太郎が訊くと、
「いえ、あの人じゃありません。別の人です」
 と首を振って高史は答える。
 そのとき奥のドアが開いて一人の女性が顔を出した。目鼻立ちのはっきりした、きりっとした女性だった。
「お先に失礼します」
 厨房のほうに声をかけてから、高史の顔にちらっと目を走らせ、ほんの少し笑みを浮べて店を出て行った。どうやら高史が常連客であることは知っているようだ。それに、ひょっとしたら……。
 そう思いつつ麻世に目をやると顔が強張っているのがわかった。目を伏せてうつむいている。
「あの人がそうです。今日は多分、早番だったようです」
 がっかりした調子で高史がいったとき、コーヒーが運ばれてきた。
「しかし、まあ。一目だけだったが顔を拝めたのだから、よしとせんとな」
 アイスコーヒーをすすりながら麟太郎はいう。
「もう少し、顔が見たかったけど……」
 ぼそりという高史の顔は赤くなっている。
「顔が見たかったか――確かに高史君がいうように美形ではあったな」
 麻世にはおよばないがという言葉を飲みこんで、麟太郎は機嫌よくいう。
「そうなんです。僕は、あのきりっとした緊張感のある顔に惹かれて」
「そうだな。顔つきからいうと高史君とはまったく逆の印象だったな。男も女も自分とは逆の魅力を持った人間に惹かれるのかもしれんな。なあ、麻世」
 と同意を求めると麻世は難しい顔をして宙を睨みつけている。グラスのなかのアイスコーヒーはすでに空になっている。どうやら一気飲みをしたようだ。
「あの人は、やめたほうがいい」
 ぽつりと麻世がいった。
 ざわっと麟太郎の胸が騒いだ。
「なぜだ、麻世。ひょっとして……」
 くぐもった声を出す麟太郎に、
「理由はここでは、ちょっと。外で話すからさっさと飲んで」
 命令口調で麻世はいった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)