連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・後 池永 陽 You Ikenaga

「それはちょっと、いいすぎだ、麻世」
 思わず麟太郎は口を開いた。
「以前は別世界だったかもしれないが、今はああしてちゃんと働いてるんだ。こっちの世界へ足を踏み入れてきてるんだ。そんな枠組で片づけちゃあいけねえよ」
「お前だって、そうだろう」という言葉を麟太郎は喉の奥にしまいこむ。
「これは理屈じゃないんだ、じいさん。合わないものは合わないんだ。第一――」
 じろりと麻世は高史を睨む。
「いくら好きだといっても、あんただってこんな話を聞いたら引いちまうんじゃないのか。普通のちゃんとした女のほうが、いいんじゃないのか」
「僕は……」
 高史が泣き出しそうな声をあげた。
「よく考えてみます。よく……」
 力のない声を高史はあげた。
「ほら、見ろ――それに向こうのほうが、あんたなんかを相手にしないことも大いに考えられるし」
 吐き出すようにいう麻世に、
「今日は帰ります。ショックが大きすぎました。帰ってよく考えてみます」
 高史はいうなり頭を深く下げ、とぼとぼと歩き出した。両肩がすとんと落ちていた。
「じいさんは、あの二人がうまくいけばいいと思ってるのか」
 麻世の矛先が今度は麟太郎に向かった。
「思ってるよ。もっとも、あの知沙さんていう娘が向こうの世界からこっちの世界へ戻ってきていると仮定しての話だけどよ」
 麟太郎はしみじみといった。
 麟太郎にとって、知沙という娘と麻世は同義語になっていた。高史と知沙がうまくいけば麻世にしたって……だからこそ余計に高史と知沙にはうまくいってほしかった。
「修羅場をくぐったことのある女と、普通の男がうまくいくはずがないよ。身の丈に合った相手じゃなくちゃ、まとまらないよ。反発しあうだけだよ」
 麻世の辛辣(しんらつ)な言葉に、
「反発しあってから、更に強く、くっつくということも考えられるぞ。いずれにしても俺は高史君を全面的に応援する。だから、お前もその手助けをしてやってくれ」
 哀願口調で麟太郎はいった。
「いいけど。でも、私の今日の話を聞いても、あいつが知沙を諦められないという答えを出したらね……そうじゃないと、手助けもへったくれもないから」
 最後の言葉をつけ加えるようにして麻世はいった。
 周囲を見ると、いつのまにか鳩の姿は一羽もいなくなっていた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)