連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・後 池永 陽 You Ikenaga

 麟太郎が『田園』に顔を出すと、奥の席で水道屋の敏之が一人でビールを飲んでいるのが目に入った。麟太郎はすぐに、その対面に腰をおろす。
「おいどうだい、体の具合は」
 怒鳴るような声をあげると、
「絶好調とはいえねえが、絶不調でもねえな。年を取るといろんな所が悲鳴をよ。まあ、こうしてビールが飲めるんだから、まだしばらくは大丈夫ってところだろ」
 煙に巻くような答えが返ってきた。
「おめえ、まだ倅(せがれ)の病院に行ってねえだろ。早く行って検査をして、すっきりした気分でビールを飲んだほうがうめえだろうによ」
「行く行く。すぐに行くから、うるせえことはいいっこなしだ。それより、麟ちゃん」
 にまっと敏之が笑みを浮べた。
「風鈴屋の高史が、恋患いで息も絶え絶えだそうじゃねえか」
「えっ、おめえ、何でそんなこと知ってんだ」
 怪訝な思いで麟太郎が訊くと、
「親方の徳三さんが、面白おかしくいいふらしているからよ、町内のほとんどが知ってらあな」
 嬉しそうに敏之は答えた。
「ネタ元は徳三さんか。あの親方は何でも笑い話にしちまう悪い癖があるからな。で、高史君の様子はどんなんだい」
「徳三さんのホラを差し引いて考えても、どうやら高史は仕事が手につかねえ状態らしいな。肩を丸めて溜息ばかりついて、時々涙ぐんでいるらしい」
「涙ぐんでるって――それじゃあ、まるで女みてえな恋患いじゃねえか」
 といってから、高史のあの性格なら涙ぐむというのもうなずけると麟太郎は考える。
「そうそう。高史は大体、純情可憐が売り物の好青年だったからな――だがよ、面白えのはこの後だ。その高史の恋患いの相手だが、どうやら、おめえんところの麻世ちゃんらしいじゃねえか」
 とんでもないことをいい出した。
「何でも、二、三日前に町内を二人が連れそって歩いてるのを見た者がいるらしくてよ。それで噂がぱあっとな」
 二、三日前というと麟太郎が二人を連れて知沙の働いている店へ行った日だ。誰かがあれを見て面白おかしく脚色して……まったく下町っていうところはプライバシーも何もあったものじゃない。
「いやいや、あれは違うぞ。あのときは俺も一緒でな――」
 事がこれだけ知れ渡っているのならと、麟太郎はその次第をざっと敏之に話して聞かせる。むろん、知沙の勤めている店の名前とヤンキーの件は伏せてだ。
「何だ、そんなことか――で、その店の名前は教えてくれねえのか」
 不満顔を露わにする敏之に、
「おめえに教えれば、あっというまに町内中に知れ渡り、その店にわんさか野次馬が押しよせることになるじゃねえか」
「そりゃあ、まあ、そうともいえるがよ」
 情けない顔で敏之がうなずいたところへ、夏希が水とオシボリを持ってやってきた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)