連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・後 池永 陽 You Ikenaga

「いらっしゃい、大先生。同じようにビールでいいですか」
 軽くうなずくと夏希は厨房に向かってビールと声をかけ、すぐに若い子がビールと小鉢に入った煮つけを持ってきた。なかを覗くと切干し大根である。夏希の手製だ。
「大先生ところ。今、幸せの手当ての客でいっぱいですってね。私も一度やってもらおうかしら、その手当てってやつ」
 ビールをつぎながら機嫌よく夏希はいう。
「おうおう。いつでもきてくれ。夏希ママなら一時間でも二時間でもさすってやるからよ。裏も表も、縦から横までもよ」
 夏希よりも、もっと機嫌よく麟太郎は答える。
「あら、背中だけで充分ですから」
 夏希はふわっと笑ってから、
「そんなことより、麻世さん。あの子をまた連れてきてくださいよ。例の件を、じっくり相談してみたいですから」
 妙に生真面目な顔でいった。
「例の件ってのは、銀座に店を出して二人で、それをやろうっていうやつかい」
「そう。起死回生のホームラン構想。二人の美形が組めば、これはもう怖いものなし」
「二人の美形か。見ているだけで背中に寒気が走る光景だよなあ」
 茶々を入れるように敏之がいう。
「美形といっても、それぞれですから。麻世さんは今風の可愛らしさ、私は正統派の美女。これで、どんなお客さんでも文句はなし」
 夏希は大きくうなずいてみせる。
「それで、今風の可愛らしさと正統派の美女では、どっちのほうが人気が出るんだろ」
 ぼそっと敏之がいう。
「それは……」
 夏希は一瞬絶句してから、
「人気が出るのは可愛らしさの麻世さんでしょうね。可愛らしさは何といっても好感度の間口が広いから。そこへ行くと美女のほうは、お客さんの好みも多種多様で間口がやや狭いから」
 一気にいった。そして、
「でも、格は可愛らしさより、美女のほうが上。そういうことですから」
 きっちりいって席を立っていった。
「何だか怖いねえ、女ってやつは」
 敏之が吐息をもらすようにいった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)