連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・後 池永 陽 You Ikenaga

 高史が診療所へやってきたのは、その翌日。治療の終る夕方頃に顔を見せて、受付も通さず入ってくると、そのまま待合室の隅にひっそりと座りこんだ。
 その日の診療を終えた麟太郎が待合室に顔を見せると、
「あっ、すみません。勝手に押しかけてきて」
 弱々しい声で高史はいい、頭が膝につくほど腰を折った。
「よく考えてみるといっていたが、何か結論は出たのかな」
 やんわりと訊くと、
「結論は出ました。だからこうして、ここへ」
 高史にしては大きな声で答えた。
「そうか、ちょっと待て。麻世ももう、帰ってきてるはずだからよ」
 と麟太郎は奥につづく扉を開けて、おおい、麻世と大声をあげた。
 すぐにやってきた麻世は、高史の顔を見て低い声を出しながら片手を小さくあげた。三人は待合室の椅子に並んで腰をおろした。
 高史が大きく深呼吸をした。
「麻世さんの話を聞いて心が動揺したのは確かなんですが、やっぱり僕には知沙さんを諦めることは……何があろうが、どうあろうが、僕はあの人が大好きで、できれば知沙さんと生涯を共にしていきたいと」
 大胆なことを一気にいった。
「そうか、そういう結論になったか、生涯を共にってか。そうか、世の中そうでなくっちゃな。いや、よくいった、高史君」
 手放しで麟太郎は誉(ほ)めるが、麻世は浮かぬ表情だ。
「いくら、こっちがそうきめても、肝心の向こうがあんたのことをどう思っているか」
 ぼそりといった。
「はい、だから、この僕の気持と、何とかおつきあいができたらという気持を知沙さんに伝えたいんですが、僕は何しろ口べたというか気が小さいというか、こういうことはまったく慣れてないというか」
 しどろもどろに高史はいい、
「それで何とか、麻世さんに僕の代りにあの人にこの気持を伝えてもらって、それで返事というか何というか」
 顔を真赤にして後をつづけた。
「麻世に、それを託すというのか。しかし、そういうことは自分で――」
 と麟太郎は口にしてから、
「いや、そのほうがワンクッション置けることになって、この場合は……」
 口のなかでもごもご独り言をいっている。そして、
「麻世、高史君の頼みを聞いてやってくれ」
 こんなことをいった。
「それはいいけど、私はやっぱり無理なような気がするよ。それでもいいっていうんなら」
 麻世の言葉に高史の両肩が落ちる。
「どんな結果が出てもいいから、高史君の気持をそのまま知沙さんによ」
 といったところへ、母屋に通じる扉のところに誰かが立つのがわかった。
「食堂に行ったら誰もいなくて、それでここにきたんだけど……」
 潤一が掠れた声でいって立っていた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)