連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・後 池永 陽 You Ikenaga

 しかしまあ、何とこいつはいつも、間の悪いときに現れるもんだと麟太郎が思っていると潤一が手招きをした。不審な気持で潤一の前に麟太郎が行くと、
「当たった。隅田川の花火大会。三枚じゃなかったけれどキャンセル待ちの分で二枚当たった。代金も振り込んでおいた」
 ポケットから二枚のチケットを出して麟太郎の前でひらひらさせた。
「当たったのか。それにしても当選通知のくるのが遅かったな」
「実はもっと前に届いてたんだけど、ほかの郵便物のなかに紛れこんでいて……あらためて丁寧に探したら、それが出てきて慌てて先方に連絡を――申しわけない」
 頭をかきながらいう。
「要するに、お前のうっかりミスか。まあ、二枚でも当たったからいいようなもんだが」
 麟太郎はひょいと二枚のチケットを潤一の手から抜き取り、
「とにかくこれは、俺が預かっとくからよ」
 白衣のポケットのなかにねじこんだ。
「それはいいけど、チケットは二枚だから。三枚じゃなく二枚だから」
 念を押すように潤一がいったとき、
「じゃあ、じいさん。これから知沙に会いにいってくるよ。こういうことは早いほうがいいだろうから」
 と麻世が大声でいった。
「何だか、取りこんでいるみたいだな、親父」
「そう、まったくお前は、間が悪い。とにかくそういうことだから今日はもう帰れ。麻世も出かけるっていうし、夕飯もどうなるかわからんし」
 睨みつけるような目を向けると、
「そうだな、帰ったほうがよさそうだ。だけど、腕相撲には負けてしまったけど、チケットは二枚だからな、親父」
 あのことも、まだ引きずってはいるようだ。
 どういうつもりか、潤一は音を立てないように静かに扉の向こうに消えていった。
「麻世っ」
 と今度は麟太郎が手招きで麻世を呼んだ。
「もし、駄目な場合、知沙さんにこう伝えてくれ。今月末の土曜日、ここへ幸せの手当てを受けにこないかと――時間はそうだな、夕方の五時頃にとよ」
 こんなことを耳打ちした。
「幸せの手当てを知沙に――いったい、どんな魂胆があるんだ、じいさん」
 怪訝な表情を見せる麻世に、
「幸せの手当てを受ければ、知沙さんだって誰だって幸せになれるからよ。何といってもオキシトシンだからよ」
 煙に巻くようなことを麟太郎はいう。
「わかったよ。とにかく行ってくるから」
 そのまま診療所の玄関から出ていく麻世の姿を、麟太郎と高史は見送る。
「さて待つか、吉報を」
 ぽんと高史の肩を叩いた。



       8  10 11 12 13 次へ
 
〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number
第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)