連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・後 池永 陽 You Ikenaga

 麻世が帰ってきたのは二時間ほど後だった。
「えらく、時間がかかったな」
 と高史と一緒に居間から出てきた麟太郎が訊くと、
「ちょうど知沙は早番で終るところだったから、別の喫茶店に行って。やっぱり元ヤンキー同士、つもる話もあったからね」
 麻世はこんなことをいい、三人はまた待合室の椅子に並んで腰をおろした。
「あんたの気持、聞いた通りに相手に伝えたよ」
 と麻世はいい、そのときの一部始終を高史と麟太郎に話し出した。
「あの人、高史さんていうのか」
 話を聞いた知沙は、まずこういったという。
「気づいてたのか」
 と訊く麻世に、
「そりゃあな。あれだけ熱い目でちらちら見られれば、女なら誰でも気づくよ。視線が合えば、ぱっとうつむくし。以前の私たちの周りには絶対にいなかったタイプ」
 すらすらと知沙は答えた。
「純情可憐な好青年で通ってるらしいよ」
「純情可憐か――何だか眩しいような言葉だよなあ。私たちがいつか昔、忘れ去ってしまった言葉というか。でも……」
 ぽつりと知沙は言葉を切り、
「ああいうタイプ、嫌いじゃねえよ。女の保護欲というか母性本能というか、そんなものを誘ってさ」
 知沙はアイスコーヒーを強くすすった。
「やっぱりな。それで、つきあってほしいという、あんたの答えは」
 麻世は真直ぐ知沙の顔を見た。
「あんたが思ってる通り……莫迦ばっかりやってきた私たちに、ああいう眩しい相手は無理。結局は申しわけなさから怒鳴りまくるか、しばきまくるか、そんな結果になるような気がする。何たって私たちはワルだったんだから。それも世間様からは極めつけの」
 大きな溜息を知沙はもらした。
「わかった。それはそれとして、ひとつだけメリケン知沙のあんたに訊きたいことがあるんだけど、教えてくれるか」
 麻世がドスの利いた声を出した。
「なんで、ヤンキーやめたんだ」
 知沙の顔がすっと青くなった。
「母親が首をくくった……だからな」
 低すぎるほどの声でいった。
「悪い。嫌なこと訊いちまった。本当に悪い」
 麻世は上体を折るように頭を下げた。
「いいよ――じゃあ私からもひとつ。なんで、ボッケン麻世はヤンキーやめたんだ。あんなに強かったのによ」
 麻世の胸が嫌な音を立てた。
「男にいいようにされて……」
 ごくりと唾を飲みこんだ。
「殺してやろうと決めたところを、あのじいさんに助けられた」
 絞り出すような声でいった。
 しばらく沈黙がつづいた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)