連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・後 池永 陽 You Ikenaga

「最悪だな私たち――ところで、あのじいさんっていうのは、この前一緒にきていたじいさんのことか」
 妙に明るい声で知沙がいった。
「ああ、今戸(いまど)神社近くで診療所を開いている医者のじいさんだよ」
「それって、やぶさか診療所のことか。ヤクザにも警察にも顔が利く、チョーお節介な、じいさんがやってるっていう」
 弾んだ声で知沙は答えた。
「知ってるのか、お節介じいさんのこと」
「風の噂のようなもんだけど、けっこう有名だな、そのじいさんは」
「実は、そのじいさんのところに私は今、住んでるんだ。じいさんは私を看護師にさせたがってるらしくて」
 照れたような口調でいうと、
「ボッケン麻世が人様の命を救う、看護師か。いいなそれは、かなりいいな」
 知沙がはしゃいだ声をあげた。
 おまけに拍手までした。
「じゃあ、メリケン知沙が、純情可憐な風鈴屋の嫁になってもいいんじゃないか。私はそう思うけどな」
「それは……」
 とたんに知沙はうつむいた。
「それはそれとして、そのじいさんからあんたに伝言があるんだ」
 と麻世は麟太郎から聞いた通りのことを、そのまま知沙に話した。
「幸せの手当て?」
 きょとんとした目を向ける知沙に、
「今、町内で大はやりらしい。誰もが幸せになれるという触れこみのようだけど」
 麻世は手当ての効用を詳細に知沙に話して聞かせる。
「何だか面白そうだな。月末の土曜日は早番のはずだから行ってもいいけど。そのじいさんの顔もじっくり見てみたい気がするし」
 なんと知沙が乗ってきた。
「じゃあ、くるといい。診療所は土曜日休みだけど、チャイムを鳴らしてくれれば、すぐに行くから」
 一件落着はしたが、二人の話はそれから一時間近くつづいた。ほとんどが昔の喧嘩自慢になってしまったが。
 これが知沙との話の全部だった。
 診療所に帰って麻世はこのすべてを正直に二人に話したが、自分がヤンキーをやめた部分だけは伏せた。心の整理がまだつかず、簡単に話せる状況ではなかった。
「お母さんが首を……」
 話を聞いた麟太郎はまずこういい、
「それなら、余計に知沙さんには幸せになってもらわねえとな」
 悄気(しょげ)返っている隣の高史の肩を、そっと叩いた。
「大丈夫だ、これからだ」
 肩を揺さぶってささやいた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)