連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・後 池永 陽 You Ikenaga

 月末の土曜日は晴天だった。
 考えれば、この日は両国の花火大会の日である。午後になって、診療所のなかが何となく落ちつかない雰囲気になった。
 看護師の八重がやってきて、何やら二階の奥の部屋に入ってごそごそやっている。三時すぎに今度は潤一がやってきて、ほんの少し顔を見せたかと思ったら、何やらそわそわした様子で外に出ていった。
 麟太郎と麻世は、二人で食堂兼居間のテーブルの前に座っている。
「今夜はいよいよ両国の川開き、花火大会の日だ。みんなで出かけるから、麻世もそのつもりでな」
 上機嫌で麟太郎がいった。
「花火大会はわかってるけど、みんなっていうのは」
 怪訝な面持ちを浮べて麻世が訊くと、
「みんなというのは、俺に麻世に潤一、それに八重さんだな」
 にまっと麟太郎が笑った。
「さらに、もう二人。高史君と知沙さんがこれに加わるな」
 上機嫌でいった。
「知沙さんって。知沙も一緒に花火大会に行くのか、じいさん」
 驚いた声をあげる麻世に、
「不満か」
 笑いながら麟太郎はいう。
「不満なんかはないけど、突然だったからびっくりして」
「幸せの手当ての後に、みんなしてな。そのためにあの子を呼んだんだが、本当にくるんだろうな、メリケン知沙は」
 心配になってきたのか、口調がやや乱暴になった。
「くるよ。あいつはけっこう律儀なヤンキーだったから、いったことは必ず守るよ。何たってメリケン知沙だから」
 訳のわからないことを麻世はいう。
「くるなら、それでいいんだ。何といってもあの子が、こねえことには……」
 口のなかでぼそぼそいったとき、二階から八重がおりてきて、
「麻世さん、上にきてください。柄をきめましたから」
 と嬉しそうな顔で声をかけた。
「えっ、上で何か」
 訝しげな声を出す麻世に、
「女の子のたしなみだ。いいから上に行って八重さんの指示に従え、麻世」
 発破をかけるように麟太郎はいい、麻世は訳がわからないような顔をして二階に行く。それを見送った麟太郎はテーブルの上の大皿に手を伸ばす。
 大皿の上に盛ってあるのは数十個の稲荷寿司だ。どういう習わしなのか、下町では何か事あるごとに、このオイナリさんが出てくる。花火大会のために夕食を摂っている暇もなくなるだろうと、麟太郎が八重に頼んで、みんなのためにつくってもらったものだ。
 麟太郎はオイナリさんをつまみながらビールを飲む。何はともあれ腹ごしらえ。本当の仕上げはそのあとだ。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)