連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・後 池永 陽 You Ikenaga

 二階から八重と一緒に麻世がおりてきた。
「何だか、恥ずかしいよ、じいさん」
 本当に恥ずかしそうに麻世はいうが、そのなかには嬉しさも混じっているような……。
 麻世は浴衣姿だった。
 柄は紺地に白抜きの朝鮮朝顔。
 麟太郎の妻の妙子が着ていたものだった。
「おおっ!」
 麟太郎は叫び声をあげた。
 前から花火大会の日には麻世に浴衣を着せようときめていた。亡くなった妻が持っていた物のなかから選んで。それが実現した。正直いって嬉しかった。
「綺麗だな、麻世。すごく綺麗だな」
 思わず麟太郎は拍手をした。
「やめろよ、じいさん。余計に恥ずかしくなるから。それに、こんな格好じゃ窮屈で、喧嘩を売られても買えないよ」
 すねたような口調でいう麻世に、
「そんなものは、買わんでいい」
 ぴしゃりといって麟太郎は首を横に振る。
「麻世さんは今風の顔立ちなので、はたして浴衣はと心配していましたら、この似合いよう。正直いって驚きました」
 感心したようにいう八重に、
「麻世は心根がいいから、だからよ、何を着てもよ。俺はそうだと思うぜ、俺はよ」
 ふいに麟太郎の声に潤みが混じった。
「じいさん……」
 叫ぶような声を麻世があげた。
「何だか夏風邪をひいちまったようだ。医者の不養生だよなあ」
 ちゅんと洟(はな)をすすった。
「じいさん、縁もゆかりもない私に、こんなことまで。どういったらいいのか……本当に、本当に……」
 麻世の声も潤んでいた。
 思いきり頭を下げた。
 そのとき潤一が帰ってきた。
「わおっ!」
 と奇声をあげた。
「すごいな麻世ちゃん。すっごく綺麗だ。似合いすぎ、浴衣似合いすぎ。ひょっとしたら、世界でいちばん綺麗かも」
 上ずった声でいった。
 三人の目が潤一を睨んだ。
「若先生、この場の空気をよく読んで」
 八重がやんわりといった。
 潤一はすぐに静かになった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)