連載
下町やぶさか診療所
第五章 幸せの手・後 池永 陽 You Ikenaga

 高史がやってきたのは四時半頃。すぐに居間に招き入れられた。
 そして五時ちょうどに、知沙が診療所の玄関に姿を見せた。
「じゃあ、八重さん。俺たちは診察室に行こうか」
 麟太郎は麻世だけを手招きして、三人でまず待合室のほうへ行き、知沙をなかに入れる。
「おっ、麻世、お前!」
 浴衣姿の麻世に知沙が驚きの声をあげ、そのあとに簡単な挨拶をして、麟太郎は知沙を診察室のほうへ誘う。八重と麻世も知沙のあとにつづいてなかに入る。
「さて、面倒な前置きはなしにして早速、幸せの手当てにかかろうかいね。時間も迫っていることだしよ」
 知沙を丸椅子に座らせて前を向かせ、ゆっくりと背中をさすり始める。
「体の力を抜いて、リラックスして、知沙」
 麻世が応援するような言葉をかける。
「お母さんのことは麻世から聞いたよ。悲しいことだけど、それだけに知沙さんには幸せになってもらわねえとな。知沙さんも麻世も、辛いことや苦しいことに散々あってきてるんだから、余計によ」
 こんなことをいいながら、麟太郎は知沙に手当ての法を丁寧に施す。手当ては三十分以上、知沙の背中に加えられた。
「さて、気分のほうは、どんなものかな。オキシトシンはちゃんと出てるかいね」
 麟太郎の砕けたいい方に、
「はい。かなり楽になった気分です。何だか背中がぽかぽかしているというか、何というか」
 砕けた調子で知沙もいった。
 本当にゆったりとした表情だ。
「じゃあ、手当てが効いたところで、知沙さんにプレゼントだ」
 といってから、八重にうなずいてみせる。
 八重はすぐにその場を離れ、母屋に行って高史を連れてきた。後ろには潤一も一緒にいるが――。
「すべては麻世から聞いたけど、ここはいろんな理屈は全部棚の上にあげて、今夜だけこれを持って高史君と花火につきあってやってくれねえか」
 花火大会の二枚のチケットを知沙の手に握らせた。後ろに立っている潤一の首が、がくっとたれるのがわかった。
「えっ、チケットが手に入ったんですか」
 驚きの声をあげる知沙に、
「だから今夜だけ二人で。むろん、高史君が訳のわからんことをいったら怒鳴りまくっても、しばきまくってもいいからよ」
 おどけた口調で麟太郎はいう。
「あっ、はい。この先は、どうなるかわかりませんけど、精一杯」
 と知沙も素直な声をあげた。
「もちろん、先のことなんぞ、お釈迦様にしかわからねえからよ。先なんてのは成り行きまかせでけっこう――そうときまったらよ、八重さん」
 突然、麟太郎の口調が伝法になった。
「はい。じゃあ、知沙さん、私と一緒に」
「えっ、どこへ行くんですか」
 とまどいの声を知沙はあげる。
「麻世さんと同じように浴衣をですね。女の子はやっぱり、こういうときは浴衣ですから」
 とたんに知沙の顔がぱっと輝いた。
「私が浴衣を着るんですか、いいんですか、そこまで甘えて」
 嬉しさいっぱいの声をあげた。
 オキシトシンのときより、嬉しそうな声だ。
「このじいさんは、甘えると喜ぶ変な性格なんだから、それでいいんだよ」
 麻世が顔中を笑いにしていった。
 高史の顔も歓びに溢(あふ)れている。
 そのとき、花火の音がドーンと響いた。
 いそいそと知沙が立ちあがった。

(了)



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)