連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・前 池永 陽 You Ikenaga

 幸子は三十分ほど前に『やぶさか診療所』から帰ったばかりだった。
 昨夜、院長の麟太郎から、今日の夕方、診療所のほうにきてもらえないかと電話があって行ってみたのだが。
 診察室に入ると雰囲気が変だった。
 麟太郎も看護師の八重も何となく硬い表情で、ぎこちない。
 無理がないともいえた。
 幸子は十日前に亭主を亡くしていた。
「要さんは、本当に残念なことになって……」
 ぽつりと麟太郎がいった。
「本当に残念なことに――それで、お店のほうはまだ休業中なんですか。お店を開けたほうが気が紛れるということも」
 すぐに、その場の雰囲気を和ませるように八重が麟太郎のあとをつづけた。
「はい、紛れることはわかっているんですが、なかなか気力のほうが……あと十日ほどは休もうと思っています」
 低い声でいった。
 幸子の家は父親の代から浅草で『ありむら』という名のもんじゃ焼きの店をやっていた。亭主の要は店に食材を入れていた会社の従業員で、それが一人娘の幸子と恋仲になり、入り婿として『ありむら』の店に入ったのが、ちょうど二十年前。幸子が二十四、要が二十七のときだった。
 その要が呆気なく死んだ。交通事故だった。
 店の買出しでワゴン車を運転して市場に行く途中、大型トラックと正面衝突して、ほぼ即死に近い状態だった。要との間に子供はなかった。二人だけの家族だった。
「あのう、大先生」
 幸子は遠慮ぎみに声をかけた。
「今日はいったい、どんな話があって私をここへ」
 怪訝そうな顔で麟太郎を見た。
「さあ、それなんだけどな」
 麟太郎は幸子の視線をそらして天井を睨みつけた。
 何とも妙な様子だった。要の交通事故の件で、何か不審な点でも見つかったのだろうか。それぐらいしか幸子には思いあたることはなかったが、それにしても要が運びこまれたのはこの診療所ではない。と、なると、いったいどんなことが。
「ちょっと幸子さんに訊きたいことがあってな。それで、ここまできてもらったんだがよ」
 申しわけなさそうにいう麟太郎の言葉に、口をぎゅっと引き結んだ表情で八重が小さくうなずく。
「幸子さんは要さんから、何か病気のことを聞いていたかな」
 今度ははっきりした口調でいった。顔も本来の医者の表情に戻っている。
「病気って……私はそういったことは何も聞いてはいませんが。あの、うちの人は何か病気に罹(かか)っていたのでしょうか」
 胸一杯に不安が広がった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)