連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・前 池永 陽 You Ikenaga

 麟太郎が自分をわざわざここへ呼び寄せて訊くぐらいなのだから、たちの悪い病気としか考えられない。それも伝染病……腸チフス、赤痢、結核などといった病名が幸子の頭に浮ぶ。
「まあ、罹ってはいたんだが――そうか、何も聞いてねえか」
 麟太郎はそういって腕をくんだ。
「大先生、ここはやっぱり、幸子さんに正直にいったほうが」
 八重が遠慮ぎみに声を出した。
「そうだな、やはりな」
 麟太郎は小さくうなずき、
「俺がこれから話すことは、実は法律違反になることなんだが、事がこうなった以上違反になろうがなるまいが、いわないわけにはいかないからな」
 きっぱりした調子でいった。
「法律違反ですか?」
 ざわっと胸が騒いだ。
「本来なら本人の承諾を得なければ、たとえ家族であっても喋ってはいかんのだが、要さんはすでに亡くなってしまっているからな。だからな」
 麟太郎の困ったような表情に幸子の胸はさらに重くなる。いったいどんな病気なんですかと口に出そうとしたが、その勇気がなかった。体を縮めて、麟太郎の次の言葉を待つのがやっとの状態だ。
「要さんは、HIVのキャリアだった」
 声は落していたが、しっかりした口調で麟太郎はいった。
「エイチアイブイ……ですか」
 聞いたことのない言葉だった。ということはよほど珍しい病気なのか。それなら稀というだけで、それほど怖いものではないのかもしれない。幸子が都合のいい解釈を頭のなかで組立てていると――。
「HIVというのは、ヒト免疫不全ウィルスとも呼ばれているもので、簡単にいってしまえば後天性免疫不全症候群……つまり、エイズのことだよ」
 幸子でも知っている言葉が麟太郎の口から出た。それも衝撃的な言葉が。
「エイズ……」
 口に出したとたん、頭のなかが真白になった。顔から血の気が引くのが自分でもわかった。体が小刻みに震え出した。
 幸子は声も出さずに黙りこんだ。
「要さんがここにきたのは、ひとつきほど前のことです」
 八重が口を開いた。
「何か引っかかることでもあったのか、血液検査を申し出られたんですが、その結果が陽性でした。要さんの話では、東南アジアのほうへ一週間ほど旅行に行ってきたとだけ、おっしゃっていましたが。おそらくそのとき、ちょっとハメを外したのが原因ではないかと」
 確かに一年ほど前、もんじゃ焼きの組合の旅行でタイとベトナムに行ったことはある。そのときに要は――むろん、この旅行に幸子は行ってはいない。
「それは、それとして」
 麟太郎が低い声を出した。
「わざわざきてもらったのは、事がこうなった以上、奥さんにも血液検査を受けてもらったほうがいいと思ってよ。夫婦ということでもあるし、ここはやっぱりきちんとしておいたほうがよ」
 ようやく呼ばれた理由がわかった。
 心のほうも、かなり落ちついてきた。



  3        次へ
 
〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number
第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)