連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・前 池永 陽 You Ikenaga

「あの、エイズというのは、どうしたら感染するんでしょうか」
 逆に質問をしてみた。
「基本的には性交渉なんだがね。粘膜の小さな傷から感染するわけだから、運が悪ければキス程度でも感染の可能性はあるな。あとは、汚染された血液の輸血や、稀には、これも汚染された注射針からということもよ」
 ささいな可能性まで麟太郎は口にして、
「ただ、もし感染していたとしても、以前と違って今はエイズの発症を遅らせるなどの、いい薬が開発されているから、絶望的になる必要などまったくない。そこのところを間違えないようにな、幸子さん」
 いたわるような言葉をかけた。
「ですから幸子さん。血液検査をしてみましょうよ。感染していなければそれでいいし、もしそうであっても、今大先生がいったように、いい薬があるんですから。結果は三日ほどで出ますから」
 今度は諭すような言葉を八重がかけた。
「はい、それなら、検査を受けても私はいいですけど」
 幸子は血液検査を受ける臍(ほぞ)を固めた。
 といっても、麟太郎の説明からいけば、まず感染はしていないはずだ。だが、念には念を入れて検査を受けてみるのもいい。世の中には途方もない運の悪さがついてまわることもあるのだ。
 それに、要がエイズなら、あの件をどうするかだ。
 口をつぐんでいるか、それとも……。
 麟太郎は要の病気を本人の了承なしで自分に伝えることは法律違反だといった。つまり、黙っていてもいいのだと。それでいけば、自分が口をつぐんでいても法律を犯すことにはならないはずだ。たとえ相手が、そのために死んだとしても、罪には……。
 幸子は呼吸を整えるために、大きく息を吸いこんだ。

 三日後――。
 幸子は今日も二階の寝間の真中に座りこんで、和箪笥の上の骨壺をじっと見ている。
 血液検査の結果を訊くために『やぶさか診療所』に出向いて帰ってきたばかりだった。結果は陰性。幸子はHIVウィルスに感染していなかった。
「当然だよね」
 ぽつりと幸子は声に出す。
「この一年ほど、私とあんたは体の関係なんてなかったんだから」
 じろりと骨壺を睨みつける。
「だけど、なんでこうなっちまったんだろうね。間が悪いというか、運が悪いというか。情けないというか」
 古畳の上にはお茶を淹れた湯飲みが置いてある。隣の皿にのっているのは羊羹だ。黒蜜のたっぷり入った、ずしりと重い上等の羊羹である。
「だけど、あれはあんたが悪い。いくら夫婦だからって、いっていいことと悪いことがあるんだ」
 幸子は羊羹を一切れ指でつまみ、ぽいと口のなかに放りこむ。ゆっくりと噛(か)みしめながら、一年ほど前の要との出来事を思い出す。考えようによっては、ささいな諍(いさか)いともいえるのだが。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
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第五章 幸せの手・後
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第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
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第二章 二人三脚・後
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第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)