連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・前 池永 陽 You Ikenaga

 あの日。店も終って従業員の早紀子も帰り、要と二人で遅い夕食を摂っていたときのことだ。
 小瓶一本のビールで顔を赤くした要が、こんなことを口にした。
「お前が太っているのは、もんじゃを食いつづけたせいかもしれんな。もう少し、痩せたらどうだ」
 この一言で幸子は切れた。
 幸子は自分のことを決して太っているとは思っていない。年相応の体重だ。町内を見回しても自分ぐらいの体重の女はいくらでもいる。それをこの男は。簡単にいえば、要は痩せた女が好みなのだ。そういうことなのだ。
 そして、もんじゃを引合いに出されたことが、もっと嫌だった。
 幸子は小学一年のときに母親を乳癌で亡くしていた。それを機に父親は会社勤めをやめ、なるべく一人娘の幸子と一緒にいられるようにと店を始めた。どうせやるなら下町らしい店をと考えた結果が、もんじゃだった。その父親も三年前に、心筋梗塞で他界していた。幸子にとって、もんじゃは家業であると同時に、父親の情愛の証しともいえるものだった。それを汚された思いがした。
「あんた。いっていいことと悪いことがあるんじゃないの。この家にとって、もんじゃは大切な生活の糧であり、大袈裟なことをいえば、心の拠(よ)りどころでもあるんだよ」
 声を荒げて要の顔を睨みつけた。
「あっ……」
 要の口から短かい悲鳴があがった。
「ごめん、いいすぎただべ。ほら、この通り謝るからなし」
 要は会津の出身で、慌てると福島弁が口から出る癖があった。要は胡坐をかいたまま、頭を下げた。
「今更、もう遅い!」
 怒鳴るようにいった。
 大体、謝るなら胡坐じゃなくて正座だろ。そんなところにも腹を立てながら幸子は怒りを収めることができなかった。
 その夜、隣で寝ている要が久々に幸子の体に手を伸ばしてきた。もんじゃの件の罪ほろぼしだ。これであの諍いを帳消しにするつもりに違いない。
 要は優しさだけが取柄の気の小さな男で、争い事を腹にためてそのままにしておけない性分なのだ。人と争うのが苦手で、火種はなるべく早く消しさって心配事を失くしたい。日々是好日(にちにちこれこうにち)――これが要の心情だった。
「嫌っ、私はあんたとはやらない」
 ぴしゃりと、はねつけた。
「けど、お前」
 手を引っこめながら要は情けない声を出す。
「けども、クソもない」
 さっと背中を向けた。こうすれば要は絶対に手を出さない。力にまかせてということをしない男だった。気の小ささと優しさが要のすべてだった。
 次の夜も要は手を伸ばしてきたが、これも幸子ははねつけた。その月のうちに数度、要は体を求めてきたが、幸子はそれをすべてはねつけた。要は幸子に手を伸ばしてこないようになった。
 そして組合の旅行になったのだ。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)