連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・前 池永 陽 You Ikenaga

 そこで要は……小心者の要にしたら思いきったことをしたものだが、幸子の怒りはそれだけではない。
 旅行から帰ったころから、店が終ったあと、要はちょくちょく外出するようになった。どうやらどこかに飲みに行っているようだ。それまでも飲みに行くことはあったが、誰かに誘われてというのがほとんどだった。それが一人で――。
「どこへ行ってるのさ」
 と質(ただ)してみると、
「飲みに行ってるんだよ。安くてうまい店が見つかったから」
 きまり悪そうに要は答えた。
「安くてうまいって、どこの店よ」
「長命寺(ちょうめいじ)裏のちっぽけな、おでん屋だよ」
 なんと、川向こうである。
「私に対する、あてつけかい」
 嫌みたらしくいってやると、
「そんなんじゃねえよ。心身のリフレッシュだよ、それだけだよ」
 要は悲しそうな声で答えた。
「精々リフレッシュして、しっかり働いてくれるがいいさ」
 そっけなくいって、その件は収まったが、ある日、市場に行った要がケータイを忘れていったことがあった。台所のテーブルの上に置いてあったケータイを幸子は手にし、何気なく着信記録を見てみると、見知らぬ番号がいくつもあった。ほとんど、一日置きだ。胸騒ぎのようなものを感じた。すぐに店の電話から、その番号にかけてみると、
「はいっ、つじ屋です」
 という女の声が聞こえた。
 慌てて電話を切った。
 なぜか胸の鼓動が速くなった。
 いつも行っている、おでん屋だ。そう思った。しかし、それにしては通話記録が多すぎる。単なる客に、店がこれほど電話をかけてくるものなのか。浮気という言葉がすぐに浮んだ。あの小心者が……。
 その夜の夕食時。
「あんたがいつも行っているおでん屋って、どんな店だい」
 さりげなく訊くと、
「俺たちぐらいの年のおばさんが、一人でやってる店だよ。だから安いんだよ」
 すらすらと答えが返ってきた。
「ふうん。だから安いんだ。それなら私も一度行ってみようかしら」
 極めつけの言葉を出した。
「いいよ。何なら俺が連れていってやろうか。二人で行っても、それほどかからねえから」
 これもすらすらと答えて、幸子はそれ以上の詮索を諦めた。要は理論武装している。そう思った。小心者が浮気をするときの典型だとも感じた。
 その夜、久しぶりに要は幸子を求めてきたが、これもきっぱりとはねつけた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
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第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)