連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・前 池永 陽 You Ikenaga

「あんた」
 幸子は和箪笥の上の骨壺に話しかける。
「私は腹を括(くく)ってるからね。徹底的にやるからね。あんたは死んじまって、もういないからどうしようもないけど。浮気相手の女は絶対に許さないから。あんたがエイズに罹っていたことは口が裂けても相手の女に教えないから」
 一気にいって、羊羹を一切れ、また口のなかに入れた。痩せたいがために、これまで我慢してきた羊羹だ。噛みしめた。甘かったが、うまさは感じなかった。幸子はむきになったように、もう一切れ羊羹を口のなかに入れた。うまいはずだと力を入れて噛んだ。やはり甘いだけだった。
「うまいよ、この羊羹。普段は食べたことのない上等の羊羹だからね。あんたも食べてみるかいといっても、あんたは何にも喋れない、骨になった身だから無理か。こんなにうまい、羊羹なのにさ」
 ことさら、うまさを強調していった。
 幸子は畳の上の湯飲みに手を伸ばし、たてつづけに喉の奥に流しこむ。口のなかが甘すぎて気色が悪かった。そのとき、今日帰りがけに麟太郎が口にした言葉が頭を掠(かす)めた。
「要さんに限って、そんなことはないだろうけどよ。幸子さん以外、つまり、他の女の人と浮気をしていたってことは……」
 麟太郎は申しわけなさそうに、こんなことをいった。
「あの、それは」
 不覚だったが言葉が一瞬つまり、語尾も震えた。
「あの、おとなしいだけが取柄のうちの人に限って、そんなことは絶対」
 慌てて言葉をつけ加えた。
「そうだな、要さんに限って、そんなことはねえよな」
 いいながら幸子を見る麟太郎の目が強い光を放っていた。何かを見透かすような厳しい目。麟太郎は自分の言葉に疑いを持った。そう感じた。
「もしそうなら、早めにその女性に教えてやらねえと、大変なことにな。悪いな幸子さん、とんでもねえことをいってよ」
 冗談っぽくいう麟太郎に幸子はぺこりと頭を下げ、そそくさと立ちあがって診察室を出てきたのだ。
 そんなことを頭に思い浮べながら、そろそろ店を開けたほうがいいかもしれないと幸子は思う。時間がなければ人間は余計なことを考えない。望むことだけに専念できる。たとえそれが良くないことであってもだ。ただ、その前に、やっておかなければいけないことがひとつあった。幸子は長命寺裏のおでん屋に行ってみるつもりだった。相手の女の顔が見たかった。じっくりと観察したかった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)