連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・前 池永 陽 You Ikenaga

 夜の八時過ぎ。
 幸子は長命寺の裏手に立っていた。
 めざすおでん屋はこの界隈だ。店の名前は『つじ屋』。これに間違いない。幸子はうろうろとその周辺を歩きまわった。店は十分ほどで見つかった。狭い路地のなかにある、間口二間ほどのちっぽけな店だった。
 古ぼけた暖簾(のれん)をくぐって、これも古ぼけた木製の引戸を開けると、エアコンの冷気がふわりと顔をつつみこむ。
「いらっしゃいませ」
 という言葉に迎えられ、なかに入って見渡すと、カウンター席だけの造りで『ありむら』よりも狭かった。「勝った」と幸子は胸の奥で快心の声をあげる。
 まだ暑い時期だったがカウンターは七割方埋まり、幸子は出入口に近い端の席に腰をおろす。そこでようやくカウンターのなかに目を向ける。普段着に白いエプロンだけをつけた中年の女が奥のほうで、おでん種の入った大きな鍋を覗きこんで、ダシ汁を足している。
 これが要の相手の女だ。
 目をこらすが、うつむき加減の横顔なのでよくわからない。しかし、年は要がいったように幸子と同じぐらいに見えた。
 鍋の塩梅がよくなったようで、女が顔をあげた。すぐに幸子の前にやってきて、顔に笑みを浮べた。
「お客さん。初めてですか、ここ」
 やけに明るい声でいった。
 わずかに幸子がうなずくと、
「千賀子と申します。以後、ご贔屓よろしくお願いします」
 思いきり頭を下げた。
「あっ、こちらこそ」
 ぼそっといった。
「何にしますか」
 という千賀子の言葉に、
「生ビールと、それから、何かおでんを見つくろって」
 これもぼそっといった。
 ありがとうございますと、愛想よく千賀子はいって奥のほうに戻っていき、おでんの鍋のなかを覗きこむ。
 幸子は機嫌が悪かった。
 要は、俺たちぐらいのおばさんといったが、半分は当たっていて半分は外れていた。年は確かに要のいったように中年だったが、容姿がかなり違っていた。
 美人というほどではなかったが、千賀子の目鼻立ちは整っていた。そして何よりも、千賀子の顔には華があった。人間を惹きつける何かがあった。つまり、端的にいって千賀子は綺麗なのだ。容姿では完全に負けていた。それが幸子には面白くなかった。まったく当てが外れた。
「お待ちどお様でした」
 声と同時に、おでんの盛り合せと生ビールのジョッキが置かれ、幸子はちらっと千賀子の顔を見てからわずかにうなずく。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
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第五章 幸せの手・後
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第四章 底の見えない川・後
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第二章 二人三脚・後
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第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)