連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・後 池永 陽 You Ikenaga

 店を開けて十日が過ぎた。
 亭主の要(かなめ)がいなくなって従業員の早紀子と二人で店をきりもりしているのだが、さすがに戦力が一人欠けた分だけ忙しくなった。
 しかし、幸子はそのほうがいいと思っている。忙しければ余分なことを考える暇もなくなる。特にあの件だ。店を開けるまでは、何かにつけて要の浮気相手の千賀子の顔が頭に浮んだが、体を動かしているときはそれを忘れることができた。しかし、店が終って一人になると……。
 そして、困ったことがもうひとつあった。
 店を開けたとたん、ちょいちょい『やぶさか診療所』の麟太郎が顔を覗かせるようになったのだ。これまでも、たまに店にやってきて、もんじゃを肴(さかな)にビールを飲んでいくことはあったが、ここのところ二日に一度は顔を見せている。顔を見せれば早紀子にまかせておくわけにもいかず、少しは幸子が相手をすることになる。それが面倒だった。
 今夜も麟太郎はきている。
 奥の席で器用にヘラを使って、もんじゃの土手をつくりながら、ちびちびとビールを飲んでいる。
 時計を見ると七時半。診察が終ってからくるので麟太郎が顔を見せるのは、いつも七時過ぎになる。『ありむら』の閉店は八時なので、あと三十分ほどだ。
「毎度、ありがとうございます。大先生」
 幸子は奥の席にいって頭を下げると、
「おっ、いいところへきた、幸子さん。少し話でもよ」
 といって向かいの席をすすめる。
 断るわけにもいかず、幸子は麟太郎の前に腰をおろし、テーブルの上のコップにビールを注ぐ。
「ありがとよ。すっかり暮しも元通りになって、幸子さんの顔にも気持の余裕が出てきたようで、何よりだな」
 機嫌よく麟太郎はいって、コップのなかのビールを一気に飲みほす。
 こうなると次のビールも注がなければならない。幸子はコップにビールを満たして、ちくりと嫌みをいう。
「大先生。どういう風の吹きまわしか、近頃もんじゃが前にも増して、お気に入りになったようですね」
 精一杯、顔に笑みを浮べる。
「そうだな。ガキのころから馴染んできた味だからな。年を取ると、それがいっそう愛しい味に感じてきてな。だからまあ、ここへちょくちょくとよ」
 麟太郎は機嫌よくいう。
 いつもなら、このあたりで幸子は礼の言葉を口に乗せて席を立つのだが、今夜は少し違った。
「本当にそれだけで、うちにきてるんですか」
 麟太郎の顔を真直ぐ見た。
「ふむっ」
 と妙な声を出して麟太郎は天井を仰ぐ。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)