連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・後 池永 陽 You Ikenaga

 次の言葉が出るのを幸子は待つが、麟太郎は天井を睨みつづけている。
「うちなんかにきているより、田園に行って夏希(なつき)ママの顔を見てたほうがいいんじゃないですか。顔を見せないと、嫌われちゃいますよ」
 また、嫌みっぽくいってやる。
 麟太郎がここにくる理由はわかりきっていた。エイズに感染した要の浮気相手の件だ。そうとしか考えられなかった。
「夏希ママか……」
 ぽつりと麟太郎はいい、視線をぴたりと幸子の顔に向けてきた。どうやら話の接(つ)ぎ穂を見つけたようで、何かを喋る気になったらしい。
「世の中には色恋よりも、もっと大事なことがあるからな」
 はっきりした口調で麟太郎はいった。
「それって、うちの亭主が浮気をしてたんじゃないかっていうことですよね」
 幸子は腹を括(くく)った。今夜は麟太郎に徹底抗戦しようと臍(ほぞ)を固めた。
「有り体にいえば、そういうことだな。もし、そういう相手がいたら、できるだけ早く教えてやったほうがいいからよ」
 低い声で麟太郎はいった。
「この前もいいましたように、事勿(ことなか)れが大好きなうちの亭主に限って、そんなことは絶対にありませんよ」
 きっぱりした口調でいった。
「それなら嬉しいんだが、どうにもわしには、そこのところがよ」
「引っかかるっていうんですか――でも、女房の私がそういってるんですから、これぐらい確かなことは」
 幸子も負けてはいない。何としてでもここは死守しなければ。
「そうだな――」
 麟太郎はすとんと肩を落し、
「これぐらい確かなことはねえよな。だけどよ、逆にいえばこれぐらい不確かなことはないともいえるんじゃねえか。何たって、幸子さんは血の通った人間だからよ。機械じゃねえからよ」
 悲しげな表情を浮べながらいった。
「そんなこと……」
 幸子は絶句する。
 麟太郎は機械じゃないからといった。そう、機械じゃないから、自分は口をつぐんで相手の女性に教えようとしない。血の通った人間だから、情けなくて悔しくて……その結果、自分は鬼になった。
「だけどよ――」
 と麟太郎が何かをいいかけたところで、後ろから声がかかった。
「女将(おかみ)さん、そろそろ」
 早紀子だ。後ろを向くと客は一人もいなくなっていて、あとは麟太郎だけだ。時計も八時を回っている。
「大先生、申しわけないんですけど、そろそろ。若い子は早く帰りたいばっかりですから」
 幸子はそういって頭を下げる。
「おう、そうだな。長っ尻は野暮ってえもんだな」
 麟太郎は小さくうなずいて、
「しばらくは、こねえからよ」
 ささやくようにいって、レジに向かった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)