連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・後 池永 陽 You Ikenaga

 後片づけを終えて、二階の寝間にあがると九時を回っていた。
 幸子は和箪笥の上から骨壺を左手でつかんで、畳の上に乱暴に置く。自分もその前に足を崩して座りこみ、右手で持っていたビール瓶とコップを畳の上に置く。
 ビールをコップに注いでから、幸子はいつものように骨壺に話しかける。
「あんた、今夜も大先生がきたよ。何とか私の口を割らせて、相手の女の名前を訊き出そうとする魂胆なんだろうけど、そうは問屋が卸さないよ。私は金輪際、あの女の名前をいうつもりはないからね」
 空いた手で骨壺を左右に揺する。
 骨壺の蓋はセロテープで止めてある。これなら、いくら振ろうが揺すろうが、骨が飛び出てくることはないから大丈夫だ。
「もっとも、しばらくはもうこないっていってたから、ちょっとほっとしてるけどね。やっぱり、ああ、しょっちゅうこられては気分のほうがね」
 といってから、麟太郎は帰りがけに何かをいおうとしていたが、あれはいったい何だったんだろうと幸子は首を傾げる。あれは確か「だけどよ――」といったあとだ。幸子はしばらく考えてから、
「いずれにしても、説教じみた言葉だろうから私にはまったく関係ないけどね。何たって私は今、鬼になってるからね。あんたと、あの女のおかげでね。あんなに真っ当だった私がだよ」
 空いていた手で骨壺を横に払った。
 骨壺は畳の上をころころと転がって横になって止まった。止まるとき、なかでガサッという乾いた音がした。
「そんな音しか出せないのかねえ。情けないねえ、まったく」
 幸子はコップのビールを音を立てて飲みほし、
「そろそろ、あんたの浮気相手の顔でも、また拝んでこようかね。何だか、やたら男に人気のある女のようだけど、あんたもあそこにいた男たちと同じように、甘えた声を出してたのかねえ。私の前では一度も出したことのないような声を」
 いっているうちに段々腹が立ってきた。
 横になっている骨壺のところまで這っていって、さらに手で転がした。何度も何度も幸子は骨壺を転がし、そのたびになかの骨は乾いた音を立てた。畳の上をあっちこっちと這っているうちに、幸子は息があがってくるのを感じた。動きをとめて大きく深呼吸した。
「ああいう、優しそうな女に限って」
 幸子は肩で息をする。
「腹んなかに何があるのか、わかったもんじゃないんだ。おためごかしの愛嬌を振りまきやがってさ。どうせ出処(でどこ)は、どっかの田舎者だ。口先だけで世の中を渡ってきた性悪女にきまってるさ」
 いっているうちに悲しくなってきた。
 涙が出そうになるのを、幸子は歯をくいしばって我慢した。あの女の話をしているときには、泣きたくなかった。代りに畳を両手で思いきり叩いた。手が痛かったが、何度も叩いた。涙を封じこめるために何度も叩いた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)