連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・後 池永 陽 You Ikenaga

 幸子が『つじ屋』に向かったのは、それから三日後。
 時間通り八時に店を閉め、早紀子と二人で大急ぎで後片づけをして、八時四十分を過ぎたころに店を出た。
「どうしたんですか、女将さん。今夜は何だかウキウキしてますけど」
 帰り際に早紀子が口にした、この言葉に幸子は愕然とした。決してウキウキしているつもりはなかったが、他人の目にそんなふうに映るということは……自分はかなり、嫌な女になっている。そう思わざるを得なかった。
 そんなことを考えつつ、幸子は急ぎ足で桜橋を渡る。隅田川からの風が心地いい。暑さはもう感じられず、季節はそろそろ秋になろうとしていた。
 長命寺(ちょうめいじ)裏の狭い路地に入り、幸子は間口二間ほどの店の前に立つ。
 古ぼけた引戸を開けて店内を覗きこむと、カウンターの前の客は以前きたときと同様七割方埋まっていた。
「あっ、いらっしゃい。またきてくれたんですね、ありがとうございます」
 千賀子の嬉しそうな声が幸子を迎える。
 ちゃんと覚えていたようだ。
 カウンターの端の空いている席にゆっくりと腰をおろす。
「何にいたしましょう」
 すぐに白いエプロン姿の千賀子が前に立ち、愛想のいい声でいう。
「何かおでんと、生ビールを」
 前回と同じ物を幸子は注文する。
「ありがとうございます。すぐに持ってきますから」
 千賀子はそういってから生ビールのジョッキを幸子の前に置き、奥に戻っておでん種の入った大きな鍋を覗きこむ。少しすると、おでんを盛った皿が幸子の前に置かれた。
「お客さん、この辺りの人ですか」
 千賀子が声をかける。
「川向こうから、きたんですけどね」
 抑揚のない声で答える。
「川向こうから、わざわざきてくれたんですか。それはありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げた。
「味はともかく、ここのおでんは安いという噂だったから、それでね」
 思いきったことを口にすると、千賀子の顔に怯(ひる)んだような表情が浮んだ。
「すみません。味のほうは、これからもっと勉強しますから」
 また頭を下げた。
 何だかこの女は頭ばかり下げている。おそらく何をいってもこの繰り返しで、決して本音は出さない性格なのだろうと幸子は結論づけ、
「こういう女とは喧嘩をしても、まず勝てない」
 口のなかだけで呟いて、ビールをごくりと喉の奥に落しこむ。
「あんたって――」
 じろりと千賀子の顔を睨みつける。
「どんなときでも、愛想がいいんだね」
 視線を外さずにいった。
「私には何の取柄もありませんから、それぐらいしかできませんので、それで……どうもすみません」
 また頭を下げた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)