連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・後 池永 陽 You Ikenaga

「それにしたって、愛想よすぎるよね」
 と幸子が口にしたとき、
「姐(ねえ)さん、そんなに千賀ちゃんを苛(いじ)めちゃいけねえよ」
 近くにいた作業衣姿の中年男が、ぼそりといった。
「千賀ちゃんは五年ほど前にご亭主を亡くして苦労を重ね、ようやくここにおでん屋を開いて、毎日を食いつないでいるんだからよ。だから、千賀ちゃんの愛想は生活の知恵のようなものなんだ。そこんところを汲んでやらねえとよ」
 中年男のしみじみとした口調に、幸子はようやく気がついた。ここは敵地なのだ。客はすべて千賀子の味方で、滅多なことをいえば袋叩きになる。よくよく考えて物をいわないと、えらい目にあう。
「まあ、そんな硬い話はなしで、みんなで仲よくね、みんなでね」
 とりなすようにいう千賀子に、
「子供さんは?」
 と幸子はなるべく柔らかな声を出す。
 すぐに千賀子は首を横に振る。
「そうなんだ」
 といったところへ、カウンターの真中あたりから「千賀ちゃん」と呼ぶ声が聞こえた。
「すみません」
 千賀子はまた幸子に頭を下げて、声のしたほうに移っていった。
「うちの嫁が冷たくてさ。今朝も家を出るとき、あんたなんか死んじまったほうがいいなんて、いいやがってさ」
 すぐに愚痴話が始まり、周りの客たちもその話に加わって賑やかになる。
 この女は聞き上手なのだ。客の話をきちんと聞き、その上でしっかりと相槌を打つ。それがこの女の武器なのだ。たったそれだけのことなのだが、男はそれで充分に納得して、いい気分になれる。千賀子はさっき、愛想ぐらいしか取柄は何もないといっていたが、それも満更嘘ではないのかもしれない。
 そんなことを考えていた幸子の頭に何かが閃いた。要の骨壺だ。そんなに千賀子が物わかりがよく愛想がいいのなら、千賀子に引き取ってもらうのもひとつの手だ。
 正直、骨壺の処理には困っていた。家の墓に入れるつもりはないし、かといって、いくら何でも隅田川にすてるというのも、実際問題としては怯むものがある。
 それなら、千賀子に引き取ってもらうのがいちばんいい。何といっても千賀子は要の浮気相手なのである。そのために、話はここまでこじれているのだ。その責任を取ってもらうためにも最良の選択といえる。
 そうしようと幸子が一人でうなずいていると、頭の上から声がかかった。
「あの、何かいいことでも、思い出したんですか。何となく嬉しそうなかんじが……」
 千賀子である。
「あっ、いえ。これからいいことがあるというか、何というか」
 いいながら幸子は腹のなかで舌を出す。
「見てろよ、女狐。今に目に物見せてやるからな、あとで吠え面かくんじゃないぞ」
 そんなことを胸の奥で呟きながら千賀子の顔をしみじみ見ると、やっぱり綺麗だった。また、腹が立ってきた。
「あの、ビールのお代り、持ってきましょうか」
 千賀子の言葉にジョッキを見ると、いつのまに飲んだのか空になっている。
「あっ、お願いします」
 素直に千賀子の言葉に従った。
 その夜は、おでんも残さずに全部食べた。
 すべては次にここにきたときだ。
 骨壺を見せたら千賀子はいったい、どんな顔をするのか。楽しみだった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)