連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・後 池永 陽 You Ikenaga

 麟太郎が久しぶりにやってきた。
 時間はいつものように七時半に近い。
 奥の席に座りこみ、器用にヘラを操ってもんじゃの土手をつくって、ちびちびとビールを飲んでいる。
 閉店の十五分ほど前を見計らって、幸子は麟太郎の席に行く。十五分ぐらいなら、麟太郎の説教を聞いても耐えられる。
「元気そうだな、幸子さん」
 ごつい顔に笑みを浮べて麟太郎はいう。
「おかげさまで、何とか元気にやらせてもらっています」
 幸子は当たり障りのない返事をする。
「変ったことは、何かないかの」
 まだ顔は笑っている。
「特に変ったことなどありませんよ、大先生」
 突き放すように幸子がいうと、
「そうか、特にないか。こっちとしては、あってほしかったんだがの」
 笑みは消えて落胆の表情が麟太郎の顔をおおう。
「また、例の話ですか」
「そうだよ、例の話だよ。俺にとっても幸子さんにとっても、これ以上大切な話はないという、例の話だよ」
 神妙な顔をして麟太郎はいった。
「大先生って、けっこう、しつっこいんですね」
 呆れた口調でいってやると、
「この件に関してはな。他のことは極めていいかげんなんだがよ」
 麟太郎は軽く頭を振る。
「そんなことより、夏希ママのところへは顔を出したんですか。出さないと、本当に嫌われちゃいますよ」
「一度、出した」
 ぼそっといった。
「どうでした。大事にしてもらえましたか」
 冗談っぽくいうと、
「邪険にされたな、思いっきり」
 麟太郎も冗談っぽく答えた。
「だから、せっせと顔を――」
 といったところで、
「前にもいったろ。世の中には色恋よりも大事なことがあるってよ。人の命に較べたら、色恋なんぞは次の次の、さらに次。それぐらい、人の命というものは重いということでな」
 しんみりとした口調でいった。
「それは、そうですけど……」
 幸子は歯切れの悪い口調で答えてから、
「そういえば前にきたとき、帰り際に大先生、何かいいかけていましたよね。確か『だけどよ』といった次の言葉だったと思いますけど、あれって」
 気になっていたことを訊いてみた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)