連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・後 池永 陽 You Ikenaga

「前にきたときの帰り際なあ……」
 麟太郎はちょっと考えこんでから、
「ああ、あれか」
 ぽんと膝を打った。
「子供のころ、あんたは感心するほど優しかった。そういいたかったんだよ」
 思いがけないことをいった。
「子供のころって、いつぐらいのことですか」
 ほんの少し、体を乗り出した。
「今から三十五年以上も前のことだな。まだ、この国が貧しかったころのことだよ」
「そのころに、何があったっていうんですか、大先生は」
 怪訝な思いで幸子が訊くと、
「ワタアメだよ」
 ぽつりといって麟太郎は太い腕をくんだ。
 幸子が小学校一年生くらいのとき、三社祭の最中の出来事だと麟太郎はいった。
 辺りには屋台がずらりと並び、幸子はワタアメを売る店の前に立って、出来あがりを待っていた。
 麟太郎は偶然、幸子のその様子を目にしたといい、ちょっと離れた所からそのワタアメ屋をじっと見ている小さな女の子にも気がついたといった。
「小さな女の子って、どれぐらいの年の子なんですか」
 話をさえぎって幸子が訊くと、
「お前さんと同じ小学校の一年生ぐらいの女の子だったが、身なりがいかにも貧しいかんじで、おそらく小遣いも持たせてもらってなかったんだろうな。だが、その子はワタアメが欲しくて……」
 悲しそうな顔で麟太郎はいい、あとをつづけた。
 ワタアメを手にした幸子が振り向くと、その女の子と目が合ったという。二人はしばらく互いに見つめ合っていたが、幸子のほうがそっと視線を外して手にしていたワタアメに目をやった。何やら考えているような素振りに見えた。
「考えているって――私は何を考えていたんですか」
 幾分身を乗り出す幸子に、
「それは俺にもわからんがよ。おそらく、その子に自分のワタアメをやろうかどうか、迷っていたんだろうな」
 首を振りながら麟太郎は答える。
「それで、結局私はそのワタアメをどうしたんですか」
 いちばん気になったことを訊いてみた。
「やったよ、その子に。嬉しそうな顔をする、その子の手にワタアメを押しつけて、お前さんは脱兎のごとく逃げ出した。多分、恥ずかしかったんだろうな。これがそのときの一部始終だよ。俺の脳裡には、そのときのお前さんの迷った顔と、受け取った女の子の嬉しそうな顔が鮮やかに残ってるよ」
 初夏の柔らかな陽の光が、幸子と相手の女の子の髪を薄茶色に光らせ、とても綺麗な光景だったといって麟太郎は話をしめくくった。
「だから、私が優しい心の持主だと――大先生は、そうおっしゃるわけですか」
 やや挑戦的な声を幸子はあげる。
「そうだよ。負けず嫌いで勝ち気な性格ではあるけれど、お前さんは心の優しい子だと俺は思う。だから今回のことも――」
 麟太郎の言葉を追い払うように、幸子が大声を出した。
「今の話、いかにもできすぎてますよね。嘘ですよね。今回の目論見を自分の思い通りにするために、大先生がつくりあげたお伽話ですよね」
 麟太郎を睨みつけた。



      7   10 11 12  次へ
 
〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number
第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)