連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・後 池永 陽 You Ikenaga

「私、そんな話、まったく覚えていませんし。第一、そんな場合、私の性格なら何の迷いもなく相手の女の子にワタアメをあげるはずです。そんな、ウジウジした態度なんか小さなころからしたことないですし」
 幸子の言葉に麟太郎の表情が歪んだ。
「何をいわれようと、私は私の道を進んでいきます。大先生の指図は受けません。それから」
 麟太郎を真直ぐ見た。
「もう、ここにはこないでください。大先生の顔を見ているとイライラします。だから、もうここには。いくら何でも、お節介がすぎます」
 幸子は声を荒らげていった。
 麟太郎がゆっくり立ちあがった。
「しばらくは、こねえから」
 いかにも悲しそうな声でいい、レジに向かって歩いた。早紀子が呆然とした表情で二人を見ていた。

 幸子が要の骨壺を持って、つじ屋に出かけたのは、この怒鳴りつけ事件のあった次の日だった。
 さすがに白い布では目立ちすぎるので骨壺は普通の風呂敷で包み、蓋をとめてあったセロテープも剥がした。つじ屋の閉店時間は十一時なので、幸子は十時過ぎに店を出て、長命寺裏に向かった。
 古びた引戸を開けると、さすがに看板間際のためか店内の客は三人だけだった。
「あっ、いらっしゃい」
 遅くに訪れた幸子の姿に、千賀子は幾分戸惑いぎみの声をかける。
「今夜はちょっと千賀子さんに、お話があってきました。こみいった話になるので、こんな時間にしました」
 席に座った瞬間、幸子は宣戦布告をするようにこんな言葉を千賀子にぶつけた。
「えっ、私に話ですか」
 呆気にとられた表情を千賀子は浮べてから、
「お客さん、ひょっとしたら、有村さんの奥さんの幸子さんじゃないですか」
 ぴたりと幸子の素性をいいあてた。
「えっ、どうしてそれを」
 驚きの表情の幸子を両手で制し、
「みなさん、今日はこれでお店を閉めますから、申しわけありませんが、これで看板ということでお願いします」
 千賀子は三人の客に何度も頭を下げる。
「千賀ちゃんからそういわれれば、仕方がねえよな。何だかお取込みのようだしな」
 口々にこんなことをいいながら、三人の客は勘定を払って素直に外に出ていった。残されたのは幸子と千賀子だけ。幸子は深呼吸をひとつして千賀子の言葉を待った。
「幸子さんがこの店に現れたということは、計画はみごとに失敗した。そういうことなんですね」
 妙なことを千賀子はいうが、そんな詮索は後回しだ。幸子は膝の上にのせていた、風呂敷で包みこんだ要の骨壺をカウンターの上にどんと置いた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)