連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・後 池永 陽 You Ikenaga

 これですべての疑念が解けた。
 要は浮気芝居の後にHIVに感染していることを知り、市場に行く途中で交通事故をおこしてこの世を去ってしまい、中途半端な芝居による疑念だけがあとに残された。そしてそれも今夜で氷解した。
 しかし、幸子はまだ釈然としない。
 疑えば疑うことのできる余地が、まだひとつ残されていた。千賀子によって筋書きだけは納得できたが、だからといって二人の間に体の関係がなかったとはいい切れない。もし、二人の間に体の関係があったとすると、芝居云々(うんぬん)の話はでっちあげ――そういう筋書きも見えてくる。
 幸子は極端に疑い深くなっていた。
 そして、それを明らかにする方法が、たったひとつあった。要のエイズ感染だ。これを千賀子に教えたとき、どんな態度をとるのか。体の関係があれば、千賀子の表情は恐怖に染まるはずだ。一目瞭然だった。
「実は私、千賀子さんにひとつ、重大なお知らせがあるんです」
 千賀子の顔を真直ぐ見た。
 千賀子はまだ、カウンターのむこうで立っていた。怪訝な視線を幸子に向けた。
「亭主の、有村要はHIVに感染していました」
 いいながら、幸子は千賀子の表情をつぶさに見る。変化はまだない。
 組合の旅行で東南アジアに行ったとき、感染したらしいという経過を、ざっと千賀子に説明し、
「HIVというのは、俗にいうエイズのことです」
 最後にこの言葉をつけ加えた。
 千賀子の表情がわずかに変った。
「有村さん、そんな病気に――」
 驚きの声はあがったが、恐れはそのなかに感じられなかった。
 千賀子と要の間に深い関係はなかった。
 千賀子の話したすべてが真実だった。
 幸子は自分の疑い深さを恥じた。
「すみません。私、今の今まで千賀子さんと亭主のことを疑ってました。本当にすみません、恥ずかしい限りです。でも、うちの人がエイズに感染していたのは本当です」
 正直にいって頭を下げた。
「でも、エイズって輸血なんかでも感染することがあるんでしょ。人の好い有村さんのことだから、現地でボランティアの献血――そんなことも考えられるんじゃないですか」
 千賀子が穿(うが)ったことをいった。
 そういえば麟太郎も運が悪ければ、そういうこともあり得るといっていた。でも、もうよかった。穿った考え方をすれば、要はエイズに感染して絶望し、交通事故を装って自殺した――こんなことも想像できる。それではあまりに悲しすぎる。すんだことはもう戻らない。事実だけを受けとめようと思った。
 要は自分を愛していた。
 これだけで充分だった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)