連載
下町やぶさか診療所
第六章 妻の復讐・後 池永 陽 You Ikenaga

 そんなことを考えていると、
「幸子さん、今夜は二人で有村さんの思い出話でもしませんか。肴もお酒も売るほどありますし、追悼会ということで」
 千賀子がふわっとした声でいった。
「追悼会ですか、いいですね。もっとも悪口会になるかもしれませんけど」
「悪口会、けっこう。なおいいですね」
 おどけた口調で千賀子はいい、
「その前にお茶でもいれましょうか。お客さんからもらった蕨餅(わらびもち)がありますし」
 幸子の前を離れていった。
 しばらくして、カウンターを挟んだ幸子と千賀子の前に、蕨餅と湯気の立つ湯飲みが並んだ。黄粉のたっぷりかかった蕨餅を眺めて「おいしそう」と幸子は目の前の千賀子に声をあげる。
 そのとき、それがおこった。
 既視感だ。
 遠い昔の小学校一年生ぐらいの。
 頭のなかで何かが弾け、幸子は思わず「あっ」と声をあげる。昨夜、麟太郎が口にしたワタアメの件。あれを思い出した。麟太郎のいった話はすべて事実だ。自分はワタアメをあの女の子に……しかし、なぜここで急に思い出したのかと考え、目の前の蕨餅と、その向こうの千賀子の顔を見た。ワタアメのときと状況が似ていた。
 そして、なぜ自分がワタアメを手にして迷っていたのか、その理由を思い出した。相手の女の子は古ぼけた服を着ていたが……顔だけは可愛かった。顔だけは幸子に勝っていた。ほんの少しそれが納得できず、それで自分は迷ったのだ。
 今回も同じような気がした。
 千賀子の容姿は誰が見ても自分より上だった。だから自分は意地を張って……ひょっとしたら心の奥では相手の女性に、要がエイズだったことを結局は教えるつもりだったのではなかったか。都合のいい見方だが、そう思うことにした。そうでなければ心が壊れてしまう……。
「子供のころ、あんたは感心するほど優しかった」
 麟太郎もこういっていたはずだ。
 そして幸子は明日の朝一番に『やぶさか診療所』に行き、麟太郎に謝ろうと心にきめた。
「どうしたんですか、妙な顔をして」
 千賀子が怪訝な面持ちで声をかけてきた。
「あの人にも、この蕨餅を食べさせてやりたかったなと思って」
 いいながら幸子は目の前の骨壺の頭の部分をそっとなぜた。ごめん、本当にごめん、あんたのこと信じられずに、ごめん……何度も頭の部分をなでた。
 心の奥で呟いているうちに涙が頬を濡らしていることに気がついた。何もかも洗い流してくれる、浄めの涙のように思えた。
 そう、思いたかった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)