連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・前 池永 陽 You Ikenaga

 血の気がすうっと引いた。
 麟太郎はごくっと唾を飲みこんで、潤一の顔を睨みつけるように見る。
「確かなんだな」
 喉につまった声を出した。
「スキルス性胃癌のステージフォー。胃全体はいわゆる硬い皮袋状態になっていて、手術をしても癌細胞を取りのぞくことは……」
 声をひそめていう潤一に、
「腹膜播種(ふくまくはしゅ)が酷いのか」
 念を押すように麟太郎はいう。
「腹膜のほとんどが転移でやられてしまって、これを手術できれいにすることは今の医学では……」
「そうすると、あとは抗癌剤ということになるんだが、その効果はどれほどだとお前は考えているんだ」
「親父も知っているように、もともとスキルス性胃癌には抗癌剤が効きにくいということもあるから、副作用のことを考えるとなかなか実行するには。だから、飲用のもののみに留(とど)めようと思っているよ」
 掠(かす)れた声で潤一はいった。
「それが、今日のことなんだな」
「一昨日病院へきたんだけど、触診と腹水のたまり具合から詳しく検査をしたほうがいいと思って、今日奥さんと一緒に病院にきてもらって検査をした結果――」
 潤一は両肩を落した。
「その結果を、敏之には?」
 嗄(しわが)れた声を麟太郎は出した。
 話の主は麟太郎の幼馴染みの、水道屋の敏之なのだ。麟太郎の体から血の気が引くのも当然だった。敏之は同級生であり、飲み友達であり、『田園』の夏希ママをめぐってのライバルでもあった。
「隠しているわけにもいかないから、敏之さんと奥さんにはなるべくわかりやすく冷静に、その詳細を話したよ。そして、みんなでしっかり頑張ろうって励ましたんだけど……敏之さんの病状が絶望的なのは話の節々から二人とも察したようで」
 潤一の視線が食卓の上に落ちる。
 話しているのは『やぶさか診療所』の食堂兼居間で、二人の雰囲気から徒(ただ)ならぬものを感じたらしく、キッチンから麻世が心配そうな表情を浮べてこちらを窺っていた。
「で、二人の様子はどうだ――といっても訊くまでもないか」
 独り言のように麟太郎はいい、
「今までの話からいうと、延命治療は無駄だと、お前は考えているんだな」
 今度ははっきりした口調でいった。
「QOLから考えれば、このまま、今までと同じ生活をさせてあげたほうが敏之さんにはいいような気がして」
 医療上のQOL(クオリティー・オブ・ライフ)とはその患者の生活の質、毎日の暮し方、さらには人間としての尊厳等を重視した治療を考えていこうという概念だった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
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第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
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第二章 二人三脚・後
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第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)