連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・前 池永 陽 You Ikenaga

「つまり、入院はしないで、しばらくは飲用の抗癌剤で自宅療養をしてもらって、今まで通りの生活を敏之に送らせようということか。むろん、仕事などはできねえだろうが――」
 麟太郎はしっかりうなずく。
「あとは、たまってくる腹水なんだけど、これはここの診療所でも抜くことはできるはずだから、それは親父にまかせるよ」
「腹水ドレナージか──それぐらいはここでも充分に可能だから、大丈夫だ。で、敏之の現在の症状はどうなんだ」
「腹部は硬く腹水はたまっていたけど、動くのに支障はないようだった。あとは、胃の痛みと食欲不振。たまに、下痢、嘔吐があるってことだな。珍しいことだけど、敏之さんはまだ充分に動くことが可能だということだよ。そんな症状だから、本人もずっと高を括(くく)っていたんじゃないのかな」
 潤一は首を左右に振った。
「最終段階直前の嵐の前の静けさか。で、お前の診断では、その動ける状態はどれぐらいつづくと思うんだ」
「多分、あと一カ月ほど」
 きっぱりした調子でいった。
「そのあとに待っているのは、急激な重症化か。そうなったら、入院するしか術(すべ)はねえんだろうなあ。治る当てのまったくねえ、悲しい入院をよ」
 麟太郎はぽつりと言葉を切ってから、
「お前の見立てでは、敏之の余命はいったいどれぐらいだと踏んでるんだ」
 じろりと潤一を睨みつけた。
「長くて半年、短い場合は自宅療養の間の一カ月ほど……」
 低い声でいった。
「短い場合は一カ月か……自宅で最期を迎えることができれば、あいつにとってそれがいちばん幸せかもしれんな」
 絞り出すような声をあげた。
「怖いな親父、スキルス癌は」
 これも絞り出すようにいう潤一に、
「進行は速いし、症状はつかみにくいし。現に俺は半年ほど前、敏之を触診してるんだからな。あのときは何も感じなかったが、すでに癌は侵蝕してたんだろうな。あのとき、首に縄をつけてでも病院に連れていけば、あるいは」
 目頭が熱くなった。麟太郎は唇を強く噛みしめた。
「自分を責めるなよ、親父。おそらくそのときにはもう腹膜播種は始まって、癌細胞はちらばっていたと思うよ。だから、これは親父のせいじゃない。親父は紹介状まで書いて敏之さんに病院に行くことをすすめたんだから。悪いのは――」
 潤一は天井をちらっと睨んでから、
「腹膜播種を何ともできない現代医学と、そしてやっぱりスキルス癌だよ。敏之さんは運が悪すぎた」
 淡々とした調子で潤一はいった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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