連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・前 池永 陽 You Ikenaga

 スキルス性胃癌とは、胃の表面粘膜を侵すものではなく胃壁のなかを浸潤して粘膜層の下にもぐりこみ、木が根っこを張るように広がっていくものだった。
 このため表面部分には変化が出づらく、また症状のほうも顕著なものが見られず、単なる胃炎と間違えられることも多かった。その結果、気がついたときには手遅れという場合が多く、進行が他の癌に較べて速いというのもスキルス性胃癌の厄介な特徴だった。
「親父っ」
 突然、凛とした声を潤一があげた。
「めそめそしていてどうするんだ。親父は医者なんだから、泣いてる暇なんかないはずだ。親父には明日から大切な仕事が待っている。入院はしないで、しばらく自宅療養ということで明日か明後日には、敏之さんがここへくるはずだ。それに、どう対応していくか。どう、敏之さんのケアをしていくか。親父には大変な仕事が待ってるんだから」
 声を荒げて一気にいった。
「そうか、そういうことだな。医者が湿った態度をしているわけにはいかんな。前向きに、しっかり敏之と奥さんを支えてやらねえとな。泣いてる暇なんぞはねえよな」
 いい終るなり、麟太郎は両手で自分の頬を強い力で叩いた。
 いい音がした。
 戦闘開始の音だ。
 それが合図だったかのように、キッチンから麻世がやってきて二人の前に立った。
「何だか大変な話をしてたようだけど、夕食はどうするの」
 いいづらそうにいった。
「もちろん、食うさ。腹一杯食うさ。腹が減っては軍(いくさ)はできぬというからな。ところで、今夜の献立は何なんだ。ちゃんと食べられるものなのか」
 おどけたようにいうが、麟太郎の両目は潤んでいる。
「幸いなことなんだけど、今夜の料理は食べられるもんだと思うよ。野菜を炒めて湯を入れて、そのなかにカレーのルーをぶちこんだだけのもんだから、食欲がなくても喉は通ると思うよ」
 掠れた声で麻世はいう。
 ずっとキッチンにいたのだから、二人の話のおおよそは聞こえていたはずなのだ。
「要するに、麻世ちゃん特製のカレーライスっていうことか」
 明るい調子で潤一がいう。
「おじさんって」
 じろりと麻世は潤一を見て、
「ちゃんとした話をするときも、あるんだね。医者っぽい話を」
 それだけいってキッチンに戻っていった。
 すぐにテーブルの上に湯気のあがるカレーの入った皿が並べられる。添えられているのは、どういう加減か豆腐の味噌汁だったが、カレーの皿の端には定番の福神漬けがちょこんとのっていた。
 麟太郎は皿の上のカレーライスをスプーンですくって、口のなかに入れる。ゆっくりと噛んだ。うまくもなく、まずくもなかったが、その個性のない味が逆に食欲のない麟太郎には有難かった。お代りはできなかったが、無理なく食べることができた。腹を満たすには充分な味だった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
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第六章 妻の復讐・後
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第五章 幸せの手・後
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第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
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第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)