連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・前 池永 陽 You Ikenaga

 潤一は二皿食べた。さすがに今夜は麻世の料理に対する過剰な称讃は口から出さなかったが、たった一言、
「感謝して、いただきました」
 静かに両手を合せた。
「ところで麻世――」
 食事が終ってから、麟太郎はこういって麻世の顔をじっと見た。
「お前の耳にも届いただろうが、水道屋の敏之はそういった状態だ。だから、待合室で敏之を見かけたら、できるだけ優しく接してやってくれ」
 こくっと頭を下げた。
「俺も優しくは接するが、俺は医者だ。その領分を守らなければならん。さっき倅(せがれ)がいったように、めそめそしているわけにはいかんからな。医者として友人として、敏之のこれからを何とかフォローしていかなければならん。だからな」
「うん、わかったよ」
 麟太郎の言葉に麻世は素直にうなずく。
「お前も、いざというときにはすぐに駆けつけてくれよ」
 潤一に向かって命令口調でいう。
「わかってるさ。緊急事態に備えて、うちの病院の受入れ態勢も万全にしておくから」
 大きくうなずいた。
「よし。余りに身近すぎる患者で、どう対応していいかわからない部分もあるが、当分は医者らしい態度で敏之とは接するつもりだから。そういうことでな」
 麟太郎は静かな口調でいって、コップの水をごくりと飲みこんだ。

 次の日、敏之は診療所に顔を見せなかった。
「どうしたんだろうな。こうなったら、こっちから押しかけていったほうがいいのかもしれんな」
 はやる気持を抑えきれずに看護師の八重子にぶつけると、
「大先生、落ちついてください。今日か明日ぐらいと若先生もいってらしたんでしょう。患者さんには患者さんの、それぞれの事情っていうものもあるでしょうし。せめて、明日までは待ったほうがいいんじゃないんでしょうか」
 やんわりとたしなめられた。
 そして、次の日の昼近く、八重子がいった通り、敏之と奥さんの文子が診療所にやってきた。
 長引くかもしれないと思い、麟太郎はいちばん最後に二人を診察室に招き入れた。
「敏之、とんだことだったな」
 優しく声をかけると、
「おう、まったくな」
 と、敏之はそれでも普段通りの口調で答えたが、顔は憔悴しきっていた。奥さんの文子も同様の顔をしていた。
「とにかく頑張ろうじゃないか。お前が一日でも長く生きられるようによ。俺も倅の勤める大学病院も、出来る限りのことはするつもりだからよ」
 麟太郎はこういってから文子のほうに視線を向け、
「奥さんも大変でしょうけど、何とか気を落さず、みんなで頑張って前向きの気持でここを乗り切りましょう」
 強い口調でいった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)