連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・前 池永 陽 You Ikenaga

「はい、ありがとうございます」
 頭を下げる文子の言葉にかぶせるように、
「麟ちゃん」
 と敏之が叫ぶような声をあげた。
「どうした。何か不都合なことでも出てきたか」
 あえて怪訝な面持を顔に浮べると、
「泣いた、喚(わめ)いた、暴れた」
 敏之が怒鳴るような声をあげた。
「えっ?」
「大学病院へ顔を出してから今日までの三日間だよ。とにかく怖くて、心細くてな。そしてあとは悔しさだよ」
 悔しさと敏之はいった。
「なんで麟ちゃんに紹介状を書いてもらったときに、さっさと病院へ行かなかったんだろうってよ。そうすればひょっとしたら、こんなことにはならなかったんじゃねえかと思ってよ」
「それは、まあ、何といったら」
 低い声で答えると、
「けど、それも若先生から話を聞いて納得したよ。たとえ、そのとき病院に行ってたとしても、俺の罹(かか)っている癌ではやっぱり手遅れという公算のほうが強かったとわかって」
 こんなことを敏之はいうが、いったい何がいいたいのか麟太郎にはわからない。
「つまりよ」
 掠れ声で敏之はいい、
「悔しさが諦めに変ったとき、癌に対する俺の様々な思いは半分ほどなくなって軽くなったということだよ」
 小さくうなずいた。
「そしてよ、あとの半分の思いに追い立てられるようにして、俺はやっぱり泣いて喚いて、家のなかのあっちの物、こっちの物を壊しまくって暴れ放題をやったんだ」
「…………」
「けど、駄目だった。あとの半分は俺の心から出ていかなかった。でも、昨日の夜、文子と一緒に壊れた家のなかを黙々と片づけていて不思議に安らいだ気持を感じたんだよ。何も考えずに、ただひたすら片づけをしてたら段々とよ」
 敏之の目が麟太郎の目を見ていた。
「なあ、麟ちゃん。単純作業っていうのはいいもんだな。荒(すさ)んだ心を何となく落ちつかせて元に戻してくれるんだからよ。まして、女房と二人での単純作業はよ」
 嘘か本当かわからないような話だったが、正直麟太郎はほっとするものを覚えた。有難すぎる話だった。
「だからよ。今の俺の心は普段のときと同じといったら、嘘になるけどよ。麟ちゃんが考えてるほど深刻じゃねえってことだよ。悔しさが抜け、泣いて喚いて暴れて、その後片づけをして心の安らぎを感じて――だから、まっとうな医者と患者のようなやりとりはやめて、いつも通り、ざっくばらんに行こうじゃねえか。俺はそのほうが助かるからよ。なあ、幼馴染みの麟ちゃんよ」
 哀願するような声を敏之はあげた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
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第六章 妻の復讐・後
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第五章 幸せの手・後
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第四章 底の見えない川・後
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第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)