連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・前 池永 陽 You Ikenaga

 敏之はかなり無理をしている。そう思った。これは下町っ子の心意気であり、見栄だと思った。敏之は今、精一杯の見栄と意地を張り、自分流のやり方で癌と闘っているのだ。のた打ち回っているのだ。
 傍らに目をやると文子が顔を両手でおおって泣いていた。泣いてはいたが声は出さなかった。文子は無言で泣きながら、敏之の話を聞いていた。麟太郎の心を羨(うらやま)しさが襲った。眩しいほどの二人だった。
「わかったよ。敏之のいう通り、いつも通りのざっくばらんでいこうじゃねえか。癌なんぞに頭をたれてたら、江戸っ子の名がすたる。そんなものは酒の肴(さかな)にでもして、食っちまえばいいんだ」
 このとき麟太郎は医者としてよりも、幼馴染みの友として敏之に向かっていこうと心に決めた。そのほうが肩の荷がおりることも確かだったし、敏之のためにもなるような気がした。
「で、麟ちゃんにひとつ訊きてえことがあるんだけどよ。いくら訊いても若先生は、はっきり答えてくれねえしよ」
 明るすぎる声で敏之がいった。
「俺はいってえ、あとどのくらい生きていられるんだ。そこんところをしっかり教えてくれねえかな」
 ざわっと胸が騒いだ。
 そんなことをはっきり口にしていいものなのか。しかし今更曖昧なことをいっても敏之は納得しないに違いない。それなら、どうしたら……。
 そのとき、それまで黙っていた文子が、ふいに口を開いた。
「この人のいう通りにしてやってください。お願いします、大先生」
 吼(ほ)えるような声だった。
 麟太郎は腹を括った。
「長くて一年、短ければ二カ月といったところだな」
 はっきりした口調で、それでもかなりのサバを読んで麟太郎は答えた。
「一年と二カ月か」
 敏之は妙ないい方をしてから、
「しかしまあ、これで身辺整理のメドがついたというもんだ――といっても、俺のようなガサツで単純な男にゃ、そんなものは必要ねえかもしれねえけどな」
 ふわっと笑った。
 笑った顔の目だけが潤んでいた。
 絵に描いたような泣き笑いだった。
 極上の笑いだと麟太郎は思った。
「大した男だな、おめえってやつはよ」
 思わずこんな言葉が飛び出した。
「江戸っ子の得意技は、痩せ我慢だからよ」
 洟(はな)をずっとすすり、
「これで家に帰れば、女房のやつに抱きついて泣くんだから、様はねえ」
 泣き笑いの顔で、敏之はゆっくりと首を振った。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)