連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・前 池永 陽 You Ikenaga

「それより、敏之。体の塩梅はどうなんだ。どんな症状が出てるんだ」
 麟太郎は初めて医者らしい言葉を出した。
「胃がどんよりと重くて、時々痛むな。何となく胃全体が石になったような感じというか。あとは下痢と嘔吐が、これも時々。まあ、そんなところだな」
 他人事のようにいう敏之に、
「それなら、順調だ」
 麟太郎も思いきって軽口を飛ばした。
「食事のほうはどうだ。どれくらい食べられるんだ」
「メシなら茶碗に半分ほど、といったところだな。まあ、猫メシといったほどの量だな」
 冗談っぽくいってから、
「麟ちゃんに、もうひとつ訊きてえことがあるんだがよ」
 妙に真面目な表情を向けてきた。
「俺はまだ、曲がりなりにも普通の暮しができてるんだが、この状態はいつまでもつんだろうかな」
「そうだな……あと一、二カ月。それを過ぎるとなかなかな。入院ということになるかもしれんな」
 低い声でいうと、
「一、二カ月か――いや、体が普通に動くうちに吉原にでも行ってみようかと思ってな。この世の名残りによ」
 また、嘘か本当かわからないことを敏之は口にした。
 ちらっと文子の顔を見ると、無言でうんうんとうなずいているだけだ。これも嘘か本当かわからない仕草だった。
「それだけの元気があれば大丈夫だ。ひょっとしたらおめえ、しぶとく生き残るかもしれねえな」
「しぶとく生き残るのはいいけど、病院のベッドの上で死ぬのは嫌だな。できるなら、家のボロ畳の上でよ。ところで、俺はどれぐらいの間を置いてここに通えばいいんだ」
 現実的なことを訊いてきた。
「三日ほどで腹に水がたまってくるだろうから。そのときはここにきて、一、二時間ベッドに横になってくれれば抜くからよ……もちろん、毎日顔を見せてくれてもいいからな」
 神妙な表情で麟太郎はいってから、
「うちへくると、いいことがあるぞ。うちの美形が、待合室でうろうろしてるはずだからよ。きっと優しくしてくれるぞ」
 笑いながらいった。
「麻世ちゃんか。確かにあの子は美形だが、俺はやっぱり、ちゃんとした大人の色気を持った夏希ママのほうが好みだな。おめえだってそうだろ、麟ちゃん」
 しゃあしゃあといった。
「それはまあ、そうだけどよ」
 ちらっとまた文子に目をやると、ゆっくりとうなずいている。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
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第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
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第二章 二人三脚・後
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第一章 左手の傷(前)