連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・前 池永 陽 You Ikenaga

「じゃあ、一緒に行ってくるか、田園によ。麟ちゃん」
「それはいいけど、おめえまだ、酒が飲めるのか」
 呆れた口調で訊くと、
「ビールをコップに一杯くらいならな」
 はっきりした口調で敏之は答えた。
「しかしなあ……」
 といったところで、文子が口を開いた。
「あの、大先生。できるだけ、うちの人のいう通りにしてやってください。できるだけ、お願いします」
 敏之にわからないよう、文子は素早く両手を合せて麟太郎を見た。
「文子さんがそういうんなら。じゃあ、善は急げで今夜あたり行くか」
 うなずきながら声を出すと、
「今日、明日はだめだ。息子夫婦と孫が見舞いにきて泊っていくからよ」
 嬉しそうな声で敏之は答えた。
 食品メーカーに勤めている敏之たちの一人息子は結婚して、町田で建売住宅を買って暮している。孫は二人で小学三年生と二年生。両方とも女の子だった。
「そうか、それじゃあだめだな。まあ、その気になったら、いつでもいいから声をかけてくれ。一緒に行くからよ」
 麟太郎も機嫌よく答える。
 二人は、それからしばらくして帰っていった。
 敏之は思った以上に確かな足取りだった。肩をすぼめて歩く文子は何度も後ろを振り向いて、玄関まで見送りに出た麟太郎と八重子に頭を下げつづけた。
「凄い夫婦ですね、二人とも」
 二人の姿を見送りながら、ぽつりと八重子がいった。
「よくできた奥さんで、敏之の野郎は幸せ者だ。だけど、あの野郎があれだけの痩せ我慢を張るとはな。正直いってびっくりしたというか、頭が下がるというか」
 しみじみとした口調で麟太郎がいうと、
「でも、二人のあんな姿を見ていると、夫婦というのもいいもんだなと、つくづく思いますね」
 普段からは想像できないようなことを八重子は口にした。
「えっ、それはまあ……」
 麟太郎は何と答えていいかわからず、言葉を濁してから、
「あれであの野郎、家に帰ったら文子さんにべったりと甘えているんだと俺は思うよ。おそらく敏之が本音を出すのは、あの奥さんの前だけ。それができるから、俺たちの前では痩せ我慢が張れるんじゃねえかな」
 羨しそうにいうと、
「あら、そういうもんですか」
 八重子が少女のように小首を傾げた。
「そうだよ。我慢して、我慢して、我慢して……まあ、高倉健の世界と同じだな」
「大先生の大好きな、『唐獅子牡丹』ですか。義理と人情を秤にかけるという……」
 素頓狂な声を八重子は出す。
「そうだよ。曲がりくねった六区の風だよ。敏之は高倉健扮する、花田秀次郎だな。痩せ我慢も、あそこまでいくと本当に頭が下がる。俺が敏之の立場だったら、あそこまで痩せ我慢が張れるかどうか……はなはだ疑わしいな」
 情けなさそうな声を出す麟太郎に、
「それで、我慢して、我慢して、我慢して、結局、花田秀次郎さんはどうなるんですか」
 八重子が妙なことを訊いてきた。
「爆発するな。我慢の限界をこえて、どかんとよ」
 何気なく麟太郎が答えると、
「すると、敏之さんも、いずれ爆発するんでしょうか」
 空を仰いで八重子がいった。
「えっ!」
「何となく、そんな気がしただけです。ほら大先生、空が綺麗ですよ。真青に澄みきった秋空ですよ」
 つられて麟太郎も空を見る。
 確かに綺麗な空だった。
 が、西のほうに黒っぽい雲が顔を見せていた。

(つづく)



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
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第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)