連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・後 池永 陽 You Ikenaga

 土曜日の午後――。
 麟太郎が『田園』のランチに一緒に行かないかと麻世を誘ってみると、
「あそこは苦手だなあ。あのおばさんは私の顔を見るたびに、銀座で一緒に店をやろうとうるさくいってくるから」
 こんな返事が返ってきた。
 麻世はこれまでに何度か麟太郎に連れられて『田園』に顔を出したことがあるものの、そのたびに、
「私の美しさと麻世ちゃんの可愛らしさが組めば、天下無敵。だから、一緒に銀座にお店を出して大きく儲けよ」
 夏希の口癖だった。
「麻世のいい分もわかるけどよ。今度敏之と一緒に田園に行かなきゃならなくてよ。そのとき、病気のことを話して、敏之に優しくしてやってくれと夏希ママに頼むつもりなんだが、何だか一人で行くのが心細くてよ。だからよ、麻世。一緒によ」
 情けなさそうにいった。
「病気のことを話してって――医者には確か守秘義務ってやつがあって、そういうことは話せないんじゃないのか、じいさん」
 怪訝な表情を麻世は浮べる。
「確かに守秘義務ってやつはあるが、そんなものは下町じゃあ通用しねえんだ。俺がいわなくたって、今頃はもう近所の連中は敏之の病気の件なんぞ、みんな知ってるはずだ。そういうところなんだ、この辺りはよ」
 何でもないことのように麟太郎はいう。
「プライバシーがないのか、ここには」
 ぎょっとしたような目をしてから、
「じゃあ、行ってやってもいいけど――とにかく、私とあのおばさんとは相性が悪いってことは確かだから。それさえ、わかっててくれれば」
 ようやく麻世は納得して、二人して夏希のつくるランチを食べに出かけることにした。
 扉を押してなかに入ると、席は八割方埋まっている。すぐに夏希が飛んできて、
「麻世ちゃん、いらっしゃい」
 まずこういってから、麟太郎と麻世をカウンター脇の四人席に座らせる。麟太郎はちらっと腕時計に目をやり、「ランチと、あとでコーヒー」と低い声を出す。時計の針は一時四十分を指していた。
 しばらくすると夏希が、ランチを運んできた。今日のメイン料理は豚肉の生姜焼である。肉がじゅうじゅうと湯気をあげている。
「こりゃあ、うまそうだ」
 麟太郎が声をあげると、
「じゃあ、食べ終わったころに、コーヒー持ってきますから」
 夏希は麻世に笑みを投げかけて、その場を離れていった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第七章 スキルス癌・後
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第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
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第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)