連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・後 池永 陽 You Ikenaga

 麟太郎と麻世は、しばらくランチを食べることに専念する。
「どうだ、麻世。お前もこれぐらいの料理は、できるようになるといいな」
 いらんことをいって、じろりと麟太郎は麻世から睨まれる。
 二人が料理を食べ終るころを見計らって、夏希がコーヒーを持ってきた。時節柄、ホットコーヒーである。手際よくランチセットをテーブルの脇に下げ、コーヒーカップを二人の前に並べて、自分も麟太郎の隣に腰をそっとおろす。
「で、どう、麻世ちゃん。銀座の件は考え直してくれた」
 これ以上はないというような、優しい声を夏希は出す。
「無理だよ。私がお店に立っても、お客なんか誰もこないよ。不愛想で可愛げがないし、顔には険があるし」
 以前は自分の顔をけなすだけだった麻世が客観的な言葉を口にした。
「そこがいいのよ。その落差が男どもには、たまらないはずだから。それに経験を積めば麻世ちゃんの顔にも愛想がね」
 と顔中を笑いにしたとたん、
「出ない」
 ぼそっといった。
「そんな、にべも、しゃしゃりも、ないことを」
「無愛想な女と、年を取ったおばさんが店に立っていても、お客はこない。無駄な時間をつぶすだけで勿体ない」
 麻世にかかると、麟太郎たちのマドンナである夏希も一刀両断である。
「あっ、あのね、麻世ちゃん。麻世ちゃんたちから見るとおばさんかもしれないけど、普通の男たちから見れば、私は充分に綺麗なお姉さんだから、そこのところは勘違いしないようにね」
 釘を刺すようにちくりという。
「そうか、そういう考え方もあるのか。見る人によって、おばさんからお姉さんまで、いろいろ変って騙(だま)されてしまうのか」
 夏希の言葉から何かを学んだのか、感心したように麻世がいった。それから、夏希の顔をじっと見た。
「おばさん、近頃老けたんじゃない。私がここにきたときよりも、ずっと。ひょっとして、苦労してるの」
 とんでもないことを口にした。
「おい、こら、麻世――」
 慌てて声をあげ、麟太郎は夏希の顔を真直ぐ見る。どきりとした。確かに顔にやつれが見えた。見過してしまえば今まで通りの美しい顔だったが、しみじみ見ると……それに今は昼間だった。外に面した曇り硝子の窓からは、うっすらと陽も射している。
「麻世、お前の勘違いだ。夏希ママは以前の通り、惚れ惚れするような美しさだ」
 それでも麟太郎は、こんな言葉を口にして夏希に向かってうなずいて見せる。
「そうよ。私はやっぱりまだ、綺麗なお姉さん。可愛らしさは麻世ちゃんには負けるかもしれないけど、美しさのほうではね」
 胸を張ってみせるが、何となく覇気がないような。麻世がいうように、他人にはわからないような、夏希なりの苦労があるのかもしれない。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)