連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・後 池永 陽 You Ikenaga

「それから、私。高校を卒業したあとの進路は、自分でちゃんと考えるつもりだから。だから、おばさんと一緒に銀座に行くのは、やっぱり無理。悪いけど」
 なんと、麻世はここで夏希に頭を深く下げたのだ。これには麟太郎はむろん、夏希も驚いたようで、二人ともぱかっと口を開け、呆気にとられた表情を浮べた。
「お前、将来のことを、ちゃんと考えているのか」
 恐る恐る声をかけると、
「考えてるよ。具体的なことはまだきめていないけど、考えてることは本当だよ。いつまでも莫迦ばかり、やってられないことも確かだから。私も少しは大人にならないと、やぶさか診療所にきた甲斐がないからね。じいさんにも悪いしね」
 羞(はにか)んだような顔をして、麻世は殊勝な言葉を口にした。
「麻世、お前!」
 思わず叫ぶようにいう麟太郎に、
「かといって、じいさんが心のなかで望んでいるような結果になるとは、限らないけど……」
 含みをもたせるようないい方を、麻世はした。
「そうか。じゃあ、その話はこれぐらいでひとまず置くとしてだな。俺は夏希ママにちょっと頼みごとがあるんだけどよ」
 幾分気落ちした表情で隣に目を向けると、
「私に話って、敏之さんの癌の件?」
 声をひそめて夏希がいった。
「声なんかひそめなくても、敏之のことはもうみんな、すべて知ってるから普通に話せば大丈夫だからよ」
「すべて知ってるって、私は敏之さんが癌になったという程度しか知らないんだけど」
 困ったような顔をして夏希はいった。
「えっ、そうなのか」
 麟太郎も少し驚いたような声をあげ、敏之の癌の種類から症状、余命のことまでを詳細に夏希に話して聞かせる。
「そんな酷(ひど)い状況なの、敏之さん」
 夏希は顔を強張らせて低い声をあげた。
「てっきり、知っているかと」
 と困惑の声を麟太郎があげると、
「ここにはまだ、プライバシーがあったんだ」
 ぽつりと麻世がいった。
「私はまだこの辺りでは、他所者で新参者だから」
 淋しそうに夏希はいい、
「とにかく、そういうことなら私にできることは何でもしますから、どんなことでもいってください、大先生」
 凛(りん)とした声をあげた。
「何も難しいことじゃねえんだ。敏之の野郎がママの顔を見たいっていうので、近々ここに連れてくるから、そのときはできるだけ優しく接してやってほしいんだ」
「そんなことなら、お安い御用です。こう見えても私も接客のプロですから、必ず敏之さんの気分をなごませてみせますよ」
 はっきりといいきって、形のいい細い顎(あご)でうなずいた。そんな様子をじっと見ていた麻世が、
「おばさんってすごいね。ちゃんと一本、筋が通ってるんだ」
 感心したようにいった。
「ちっとは見直した、麻世ちゃん」
 ちらっと流し目を送る夏希に、
「見直したよ。本当のおばさんは、偉い人なのかもしれないって感じたよ」
 本当にそう思ったのか、夏希の顔を正面から見て麻世はかすかにうなずいた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)