連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・後 池永 陽 You Ikenaga

 敏之が麟太郎と一緒に『田園』に顔を見せたのは三日後のこと。夜の八時を回ったころで、たまった腹水を麟太郎のところで抜いた次の日だった。
 客は三組ほどいるだけで、夏希はすぐに二人を奥のテーブル席に座らせた。
「話は全部、大先生から聞いたわ。大丈夫なの敏之さん」
 敏之の顔をしっかり見て訊く夏希に、
「大丈夫だよ。やぶさか診療所前の坂は、まだ苦労せずに上れるからよ」
 笑いながら敏之はいった。
 麟太郎の診療所前には、ほんの少し勾配がついているが、そこをちゃんと上りきることができればまだまだ死なないという言い伝えが、この辺りでは昔からあった。といっても、わずかな坂なので、よほどの重病人でない限り、上ることはできるのだが。
「ああ、それなら大丈夫だね。まだまだ頑張れるよね」
 と夏希はいうが、やぶさかの言い伝えはどうやら知らなかった様子だ。
 テーブルの上にツマミと一緒に、夏希特製の肉じゃがの小鉢が置かれた。敏之の大好物の一品だ。
「さあ、食べて。腕によりをかけて私がつくったんだから、おいしいよ」
 敏之の手が箸を取り、肉じゃがの小鉢に伸びた。そっとつまんで、ゆっくりと口に運ぶ。口のなかに落しこむように入れ、肉じゃがを転がすようにして敏之は咀嚼(そしゃく)する。ごくりと喉の奥に落しこんだ。
 そのとたん、夏希は両手を激しく叩いて拍手をした。今夜の夏希はことさら一生懸命の様子だ。
「次はビール。コップ一杯ぐらいしか飲めないって聞いてるから、少しずつね」
 夏希は敏之の前のコップに、そろそろとビールを注ぐ。
「ママ、そんなに重病人扱いしなくても、俺はすこぶる元気だから大丈夫だよ。特に今夜は調子がいいからさ。ママの顔を見たせいかもしれないけどな」
 敏之は思いきり顔を崩して笑った。
 夏希の心遣いに敏之も嬉しいのだ。
 二人のやり取りを眺めている麟太郎も嬉しかった。そして、ほんの少し羨(うらやま)しかったが、心のほうは温かかった。
 敏之の手がビールの入ったコップに伸び、そろそろと口に運んだ。喉をわずかに鳴らして飲んだ。さすがに一気にというわけにはいかなかったが、コップのビールは半分近くなくなっていた。
「凄い、敏之さん。立派、立派すぎる。でも、あとの分は、ちびちびとね」
 いいながら夏希はまた、拍手した。
 そんな様子がしばらくつづいた。
 ふいに敏之の前に座っていた夏希の背中が、ぴんと伸びた。背筋を伸ばした状態で、真直ぐ敏之の顔を見た。
「十年ほど前、銀座のクラブにいたとき……」
 低い声を夏希は出した。
「乳癌になって、右の乳房を全摘しちゃった」
 少女のような声でいった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)