連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・後 池永 陽 You Ikenaga

 突然の告白だった。麟太郎の胸がどんと音を立てた。敏之の顔にも驚きの表情が張りついた。
「全摘って、それは本当なのか、夏希ママ」
 麟太郎は思わず声を張りあげた。
 このとき麟太郎の胸に、ひょっとしたらこれは嘘なのではという思いが湧いたのも確かだ。夏希は敏之の状態に合せて、こんな嘘をついた。しかし、この期におよんでそんなことを……。
「本当よ。その時点で私の女の価値は半減した。普通の女性と違って、夜の商売をする私たちにとって、片方のオッパイがないっていうことは死活問題だから」
 泣き出しそうな顔をして夏希はいった。
 真に迫っていた。これは本物だと麟太郎は感じた。もしこれが芝居なら、夏希という女は女優顔負けの演技力の持主といえる。
「私たちの商売って、時には裸になってお客と一夜を過さなければならないことも出てくる……それはわかるわよね、敏之さんも大先生も大人だから」
 わずかにうなずく麟太郎と敏之の顔をちらっと見てから、
「片方のオッパイがなくなったということで、私にはそれができなくなった。私の存在感は薄くなり、お店での立場もどんどん悪くなった。いくら顔だけよくっても、最後の武器が使えない女は役立たずそのもの。だから私は銀座を離れて、あちこちを転々とし、結局この地に流れついた」
 夏希は大きな吐息をもらした。
「形成外科で、何とかよ。元通りにならねえとしても、何とかよ」
 遠慮ぎみに声を出す麟太郎に、
「当時はそんなことをする人はいなかったし、それに再発すれば、どうせ、また……」
 夏希は細い声で答えた。
「そうだな、乳癌は他の癌と違って全身病だからな。五年たとうが十年たとうが、完治というわけにはいかねえからな。そこんところが厄介というかよ……」
 麟太郎の語尾が震えた。
「そう、再発の恐怖と女としての情けなさ」
 夏希は絞り出すような声でいい、
「これが私の、誰にも話せなかった悲惨な過去……」
 つけ足すようにいった。
「だから、麻世と一緒に銀座にって、しつっこく誘ったのか。あれは、すべて本気だったのか。ひょっとしたら冗談かとも思っていたんだがよ」
「もちろん、本気だった。私は銀座を忘れることができなかった。だから、せめて――」
 ぷつんと夏希は言葉を切ってから、
「裸にはなれない私に代って、その役目は麻世ちゃん。私の役目は愛嬌をふりまいて男を引きよせる、客寄せパンダ。二人で仕事を分担すれば何とかなると思ってた。それで、丸く収まるはずだった」
 低い声で一気にいった。
「けどよ、何たって麻世はまだ若いし、それに麻世はよ──」
 麟太郎は言葉をのみこんだ。麻世がレイプ被害者であることを軽々しく話すわけにはいかない。これ以上はいえなかった。
「いずれにしても、麻世には無理だ」
 ぽつりといった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)