連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・後 池永 陽 You Ikenaga

 麟太郎のその言葉に何かを感じたのか、
「わかってます。私が何をいおうと麻世ちゃんはまったく相手にしてくれなかったし、無理なことはよく……だから私の妄想も、これでおしまい。よく、わかってます」
 くちゅんと夏希は子供のように洟(はな)をすすった。
「夏希ママ……」
 敏之が掠(かす)れた声を出した。
「元気出さないとよ、元気だけはよ。何がなくても元気だけはよ」
「そうね、元気だけは出さないとね――敏之さんと私は似た者同士、最前線の戦友のようなもの。その敏之さんがこんなに元気なんだもの、私も元気を出して頑張らないとね」
 敏之と自分は似た者同士だと、夏希はいった。
「そうだよ。夏希ママが元気を出してくれねえと俺、頼みごともできねえからよ」
 顔中を笑いにして敏之がいった。
「私に頼みごとって何。似た者同士の敏之さんの頼みなら、私何でも聞いちゃうから」
 夏希も顔中を笑いにして返事をする。
 二人とも泣いているような顔だった。
「俺、一度でいいから夏希ママとデートがしたくってよ。それがなかなかいえなかったんだけど、あの世を間近に感じたら、こうしてすらっといえるようになってよ」
 意外なことを口にした。
「いいわね、デート。行こ、敏之さんの好きなところへ、二人で行こ。いったい、どこへ行きたいの」
 妙な展開になってきた。
「本当なら吉原へ行きたかったんだけど、夏希ママと一緒に吉原へは行けねえから。ここはやっぱり浅草(エンコ)生まれの俺にしたら、花やしきだな」
 子供のようなことを敏之はいった。
「花やしきか。あそこなら乗物もゆっくりしているから、私たちのように最前線で戦っているものの息ぬきには最適。敏之さんの容体が上向きになったら、ケータイに連絡して。二人して、メリーゴーランドに乗ろ」
 はしゃいだような声で夏希はいうが、顔はやっぱり泣きそうだ。
「そうだな、容体が上向きになったらな」
 そういって敏之は黙りこみ、同じように夏希もぎゅっと口を引き結んだ。そして、子供がにらめっこをするように、二人は互いの顔を睨みつけたのだ。
 異様な光景に見えた。
 一言も喋らず、二人はにらめっこをつづけた。やがて敏之の目から涙がこぼれ落ち、つられたように夏希の目からも涙がしたたって白い頬を伝った。二人は涙をこぼしながら互いの顔を睨みつけるように見つづけた。
 何がどうなっているのか、麟太郎にはさっぱりわからなかった。が、二人の間に入って口出しする隙は見出せなかった。二人は真剣そのものの表情で見合っていた。



     6    10 11  次へ
 
〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number
第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)